2017年2月21日火曜日

さくら通りになぜ桜がないの?

地名には歴史・由来があります。府道箕面池田線「さくら通り」は桜の散ったあと牡丹と競うように花水木(ハナミズキ)が真っ白やピンクの花を咲かせます。昭和20615日大阪大空襲があって池田にも若干の被害がありました。戦局が厳しさを増すなか、今後の空襲による延焼を防ぐため道路が拡幅され桜の木が植えられました。しかし戦後虫害や落葉の苦情があって桜は伐採されて代わりに花水木が街路樹となりました。この道は昔から池田の郡役所や警察署に通ずるメインストリートでした。またその昔著名な漢学者田中桐江の門人、国学者荒木蘭皐の住居があり荒木町と呼ばれ文化人のメッカでもありました。道の傍には小蟹川が流れる風光の散歩道でもありました。平成9年「大阪なみはや国体」では卓球の競技場体育館へのメインロードとして整備され道路の両側には能勢特産の黒御影石の彫刻が並び石の道とも呼ばれています。故3代目桂春団治は花水木をこよなく愛しました「落語の池田」としてもさくら通りの花水木もふさわしいものとなりましたね。






2017年2月20日月曜日

健康な社会
イタリアの憲法32条に「個人としての健康と、社会の健康は切り離せないもの・・・」とあります。健康な社会とは、どうあるべきかを考えて見たいと思います。人間が生まれ共同生活をする必要から自然的に発生した集団と、利害・目的のために人為的に作られた社会がある。人間の健康と同じく物理的な社会基盤インフラ(インフラストラクチャー)の整備と精神的な秩序・安心感・幸福感が求められます。日本は色々な問題や将来の不安を抱えながらも恵まれた国の一つで日本人として生まれたことを、先ず幸せと思わなければならない。平和に慣れ、平穏な日常を過ごしているとその価値を忘れ、より安楽により贅沢な生活を求める欲望に際限はない。幸せは裕福や贅沢ではない、今の自分の状態に感謝し足るを知って有難いと感じることが必要だ。
社会は人間として生まれた時から競合の世界であり、平等ではなく、報われないことの多い社会であることを理解した上で、自分の存在を認めることが大切だ。
自分が社会の中で自立し、人間仲間としてそれぞれの立場、生き方を認め合う寛容な心、感謝の心を持って思いやり助け合う気持ちが社会を潤すことになるのではないでしょうか。

高齢者・障害者など社会弱者を特別な人間として扱わず、自分がその立場になりうることを考えて偏見や差別をなくさなければなりません。また当該者は社会に存在する価値を見出して生きがいを持って社会に助けられていることに、感謝する必要があります。


2016年10月20日木曜日

「いいね」考
 
F友がタブを横から覗きこんで「いいね!」いくつ来た? SMS交流サイトフェイスブックでは投稿に共鳴したら「いいね」をクリックする。リアクションすることで相互の気持ちが通じ合うのだ。「いいね」の数が増えて来ると、わくわくして友達の顔が次々と浮かんで「有難う!」と叫びたくなる。見ても「いいね」をしない人もあるので「いいね」の数は、私の場合せいぜい10数個くらいでたまにはお世辞でもいいから「いいね」してほしいと思う。「いいね」の数は友達の数に比例するので著名な人は内容に斟酌されずに「いいね」が増える。私の友達数は100名程度で友達リクエストがあった人ばかりだが積極的に友達を増す人もある。すると知名度が上がり「いいね」も自然に増える訳である。私は「いいね」の数が多いのは必ずしも自慢出来ないと思っている。「いいね」を頂いている人の友達関係の近親度を大切にしたいと思っているからだ。近頃は長い文章は読まれないし、やはり写真がないと目にとまらずスルーされてしまうので5行位のコメントと写真は3枚程にして、読む人に少しでもお役に立てる情報を提供したいと心がけている。一方的な自己満足の内容は好ましくないと思う。F友が「フェスブックを始めてから、えらい元気になったなぁ~」と言ってくれる。フェスブックは実社会の交際とは別に新しい社会のつながりが出来て、こんな歳になってもポジティブな気持ちにさせてくれて日々の交流が生きがいになっている。


2016年9月26日月曜日

「日本のおもてなし」の伝統を守る京花街

「日本のおもてなし」の伝統を守る京花街
京都には上七軒・祇園甲・祇園東・宮川町・先斗町の5つの花街(かがい)がある。これらを遊郭や歓楽街と思われる節があるが、ではなくて日本の遊びの文化を代表する無形文化財とも言える歴史的文化的な存在で、独特のしきたり・習慣を守って一つの別世界の社会を形成している街なのである。
5花街の他に遊郭として歴史のある「島原」があるが、現在は大門と角屋・桔梗屋・輪違屋の3軒の揚屋が残されているが、角屋のみが観光名所として一般に公開され、屋内の見学や太夫の花魁道中など昔の遊郭の風情を見ることは出来るが実際の営業はされていない。(戦後は五条・七条新地などが出来ている。)
花街のお茶屋は寺社への巡礼や街道を旅する人をもてなす水茶屋が起源16世紀中頃にすでにあった。(室町時代末期とも?)その名残りは八坂神社南側の鳥居の傍にある柏屋・藤屋の二軒茶屋で、今は中村楼になっている。水茶屋は水⇒白湯⇒お茶⇒お酒となり、お茶菓子つまみ豆腐などの料理が出され、座敷が作られ、茶汲み女たちは三味線を弾いたり踊ったりして客を引くようになって、仕出し屋が料理を運び込むシステムが出来た。こうして現在のお茶屋となった。茶屋営業が祇園界隈に初めて許可されたのは寛文10年(1670)で最も栄えたのは19世紀初期でお茶屋700軒芸舞妓3000名を超え、幕末には西郷・大久保・高杉・桂などの志士の活躍の舞台となりました。大正時代からは夏目漱石・谷崎純一郎・吉井勇などの歌人文人が訪れました。
祇園は、明治14年甲部と乙部に区分され、昭和30年頃乙部は祇園東となった。祇園甲部は有名な赤いベンガラ壁の「一力」(万亭)を代表する歴史的景観保全地区に指定されて京都ならではの優雅な情景です。
先斗町―三条から四条まで南北に鴨川沿い500mの区域。起源は慶長19年(1614)鴨川沿いに高瀬川(角倉了以の運河)が造られて舟運が盛んとなってお茶屋や旅籠屋が急速に建ち並んだ。先斗はポルトガル語の「ポント」(先端)また「先ばかり」を意味すると言われている。
宮川町―宝暦元年(1751)にお茶屋の許可が下りた。八坂神社の神輿洗いの川筋に出来た町で宮川と呼ばれている。この河原は出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたことから芸人の集まる地域たなった。女歌舞伎から美少年の若集歌舞伎に変わり彼らの宿がこの辺りに多く「男色」の対象にもなり、現在の歌舞伎役者の屋号「音羽屋」「成駒屋」など宮川町の宿屋の屋号に由来している。町筋は歴史的景観保全地区に指定されている。
上七軒―京都最古の花街で室町時代北野天満宮が焼けて修造したとき残った材木を払い下げて建てたお茶屋「七軒茶屋」が起源となっている。天正15(1587)北野大茶会が催されたとき豊臣秀吉が休憩所とし、営業権が公許された。敷地は西方寺(西芳寺・苔寺)に属していて茶会の水を汲む井戸は西方寺にある。芸妓は天満宮の巫女が起こりとされている。機織りの町西陣に近く旦那衆の奥座敷と言われる。川端康成の小説「古都」や水上勉の「五番町夕霧楼」にも登場する花街です。秀吉が褒めたみたらし団子が紋章になっている。
祇園東は明治14年祇園が甲乙に区分され、昭和24年乙部は東新地となり、昭和30年頃から祇園東となった新しい花街です。変遷が激しくビルもできスナック・BARも混在する花街となっています。西側は映画ロケに良く出る「巽橋」や「辰巳稲荷」そして白川の流れる祇園新橋界隈は伝統的建築物群保存地区に指定されている。吉井勇の「かにかくや・・・」の歌碑や磯女のロマンもあります。

花街 お茶屋・芸妓舞妓の人数と踊りの流派

先斗町
宮川町
上七軒
祇園東
祇園甲

お茶屋
38
41
12
11
82

芸妓
44
33
18
11
89

舞妓
5
23
4
4
16

踊り流派
尾上流
若柳流・楳茂都流(うめもと)
 花柳流
藤間流
 井上流
合計
184
195
52
(平成13年現在)

おかあさんーお茶屋・置屋(屋形)の経営者おかみさんのことをこう呼ぶ。
血縁もなく、歳が若くても舞芸妓を続けて花街にいるかぎり幾つになつてもおかあさんである。おかあさんは舞妓の日常のすべての生活指導に当たり、生活費・衣装代・髪結い代お稽古代すべて負担する。舞妓は何事も報告し許しがなければ勝手なことは出来ない絶対服従の関係となっている。
おねぇさんー歳下でも先輩はすべておねぇさんと呼ぶ。おねぇさんのおねぇさんは大きいおねぇさんとなる。80歳になってもおねぇさんだ。(客もお爺さんでも「おにぃさん」と呼んでくれる。)会話のなかでは「桃子さんねぇさん」と丁寧に言うこともある。最も縁の深いおねぇさんは舞妓になるとき(お店だし)
手を引いて出てもらったおねぇさんで姉妹の関係になり、おねぇさんの四股名の一字をもらつて小扇さんの妹は小桃さんと名付けする。おねぇさんはおかあさんと共に妹の躾役でもあり庇護役もする。年功序列・先輩後輩の意識の強い花街である。
お茶屋と屋形―お茶屋は宴会場(芸舞妓の仕事場)である。客からの予約はお茶屋から屋形(置屋)の芸舞妓に伝えられる。屋形は芸舞妓の住まいであり芸能プロダクションである。上七軒と宮川町はお茶屋と屋形を兼ねている。宴会はお茶屋だけに限らず料亭で芸舞妓が出張の形で出向くことも多い。
舞妓さんー昔は14歳位でなったが、現在は中学卒以上で仕込みとして屋形に住み込み家族となって修業を始める。屋形のおかあさんは親から引き取ると一切の責任を持って、食費、衣装、装飾品、小物を揃え、芸のお稽古など、すべての費用を負担(立替)する。最低でも3000万円の資金が必要である。
日常生活は花街のしきたり花街言葉・芸事のお稽古以外に掃除洗濯買い物台所仕事使い走りなどの雑用をこなし就寝や入浴もおねぇさんが帰って来たあと午前23時頃となり、睡眠不足が続く。そんな厳しい躾を8~10ケ月勤めてようやく見習いとしてお座敷に上がり1カ月程おねぇさんと実習する。そして認められてお店出しとして舞妓一年生となる。5年位年季の明けるまで無給でお花代を稼いでおかあさんにご恩返しをするわけである。やがて自前(独立)となり襟替えして島田・勝山の髪型となり、芸妓となってお座敷に出ることになる。
舞妓の衣装・飾り・髪型・履物―京都の街かどで、最近は観光舞妓を見かけて見間違うことがある。本物の舞妓はすべてに決まりがあって季節の月毎に変わる簪、化粧の違い、店出しから何年目か?何処の花街で屋形は何処かまで分かり、会席により着替える衣装など実に細やかなしきたりがある。舞妓の象徴だらりの帯は家紋入りでくるぶしまである。帯留はポッチリと言う高価な
髪型は地毛で割れしのぶ、髪飾りは月毎に変わる季節の花簪・ビラカン・玉カン、履物はおこぼと呼ばれ、化粧は白塗りで襟足を書く、口紅は1年目は下唇だけ描く、
舞妓になる時くどいように念を押されるのは、若い男との恋愛は絶対に許されないことです。舞妓に出るためには、衣装代や宝石類など巨額のお金がいる。
それを全部置屋が立て替えるわけだし、その上おどり・三味線・短歌・鼓などあらゆるお稽古を仕込まなければならない。若い男には返す力がないからだ。
旦那になる人は舞妓にかかった借金を払った上で置屋やお茶屋が潤うようなお金を出せる人でないと困る。舞妓は勝手にやめると本人か実家が借金を負担しなければならない。
最近は大金を出せる旦那がいなくなって、何人かで旦那になるが知っていても黙っている。陰で「馬の足」と言う。踊りの会や盆暮には陰ながら援助をする。
御飯食べ
その日一日舞妓を買い切って、普段着で食事に行ったりクラブなどに同伴することで、舞妓は一日休日になるので喜ぶ。(花代だけで7~8万円)舞妓の仕事は化粧して着付け帯締めでお座敷を回り踊りをしたり、客の相手で緊張の連続となるので楽出来るわけです。
花街言葉
お~きに よろしおす おきばりやす ・・・とちゃいますやろか すみまへん
よろしゅうおたのもうします へぇ~そうどすか そうどす おいでやす 
よろしゅおす じゅんさいな  (身振り言葉もあって身振りで合図する)
お茶屋では一日でも先に舞妓になった先輩には言葉を返すどころか先に歩くことも出来ないほど、しつけが厳しい。先輩の舞妓芸妓が先に居る座敷に入るときは一人一人に「姐さん、おおきに、よろしゅうおたのもうします」と挨拶し、
先に帰るときも「姐さん、おさきいどす。すみまへん、おおきにどす」とわずらわしい程丁寧に挨拶するのがしきたりです。お座敷で聞いたこと見たことは絶対に言ってはいけない。
お座敷遊び
とらとら(和藤内) 金毘羅船々 べろべろの神様 野球拳 夫婦拳 迷惑拳
いろはのいの字 
踊りの会
上七軒  北野おどり  4
宮川町  京おどり   4月第一第1土曜日~第3日曜日
先斗町  鴨川おどり  51日~24
祇園甲  都おどり   331~430
祇園東  祇園踊り   秋
祇園小唄
昭和5年映画「祇園小唄絵日傘」マキノ映画金森万象監督の主題曲となった
長田幹彦作詞・佐々紅華作曲。お座敷で必ず踊る舞踊で舞妓が初めに習う。
だらりの帯
元禄期歌舞伎女形 水木辰之助が始めた。くるぶし迄ある帯で屋形の紋がついている。(観光舞妓との見分けは簪とこれで分かる)見習いの舞妓は半だらの
帯を締める。
「おおきに財団」

おたがいに おもいやり きくばりして にこやかに

2016年5月16日月曜日

江戸時代前期の池田
戦国時代、永禄11年(1568)遂に池田城は織田信長の標的となり落城。
三好衆のクーデタによって池田勝正は逃亡そして池田氏の滅亡しました。そして以後荒木村重の反逆、有岡城の落城といわゆる、天正の兵乱によって池田は完膚なきまで焼き尽くされましたが、豊臣秀吉の天下統一によって天領となり
ようやく街道も整備され村も復興されて池田に秀吉は有馬温泉湯治の道すがら何度もに立ち寄り久安寺で茶会を催したり、秀頼もまた池田で宴を催し猪名川での鮎の川狩りを楽しみ滞在しました。また、寺社奉行片桐且元に呉服神社・伊居太神社の社殿の修築させるなど池田に支援してくれました。秀吉の没後徳川家康は天下分け目の決戦と言われた関ケ原の合戦で西軍石田三成を打ち取りました。そして豊臣家へのとどめの緒戦大阪冬の陣に臨み軍を進めました。家康は奈良から大阪への最短距離の古道生駒の「暗峠」(くらがりとうげ)で休憩を取っていた時、池田村庄屋菊屋助兵衛・年寄牧屋又兵衛・淡路屋新兵衛が池田酒を荷駄につけて軍資金と共に陣中見舞として家康に差出しました。家康は大いに喜び褒美(ほうび)として御朱印の禁制状を下付しました。この禁制状の特権は池田の酒造業は勿論町人・百姓・馬借など池田村全体が庇護され繁栄しました。
酒造家は勢いに乗じて「下り酒」として江戸へ池田酒を送り江戸呉服町の出棚(支店)では満願寺屋の菰印「小判印養命酒」は最上の酒として人気がありました。最盛期の元禄10年(1697)には63株・醸造38戸・石高1万1千石超でその内、満願寺屋は1135石を占めていました。加えて運上冥加金御免(税の免除)休業御免(醸造制限なし)の特権があり、満願寺屋は「万貫寺屋」と呼ばれる程の資産家となりました。満願寺屋は川辺郡満願寺村(宝塚市山本)から、また「山本屋」も山本荘司阪上家の子孫で共に池田で酒造家として成功しました。この頃すでに伊丹・鴻池・山本・小浜・加茂・今津・西宮・灘など一帯で酒造りがされるようになっていました。中でも川辺郡長尾村(伊丹市)鴻池は尼子氏の勇将山中鹿之助の直孫山中新右衛門幸元が酒造りを始め澄酒の醸造に成功しそれを基に、その後莫大な富をなしました。(幸元は隠退後池田大広寺の禅門に入り同寺に墓地があります。)
さて栄華を極めた満願寺屋もやがて影を落とし衰退しはじめ、安永3年(1774)御朱印状事件が起きます。事件は、資金に窮した満願寺屋は同業の大和屋に300両を借ります。しかし返済が出来ず大和屋大三郎は奉行所に出訴。満願寺屋は朱印状を当家に下付されたものと、大和屋ほか6名は池田酒造連名に下付されてものと主張。示談がならず3年間の係争の結果安永5年(1776)満願寺屋は敗訴。朱印状は幕府に召上げられてしまいました。この事件後大和屋・鍵屋・山城屋が躍進。大和屋金五郎は1740石満願寺屋は650石と業界は新興が逆転しました。しかし事件は満願寺屋だけでなく酒造界全般に影響し、朱印状の特権に甘んじ保守消極的で狭小頑浅な池田の酒造業は伊丹・灘の進展に暫時衰退傾向へと向かって行きます。衰退の内因は馬借に頼る運搬費が原価を高め、地元郷土の消費が振るわず、他郷への株の分散持ち出しが原因となりました。外因として伊丹・灘の海運の有利・灘の宮水(硬水)の開発・水車による精米の機械化・醸造技術の革新・生産の効率化などが考えられます。魚崎の宮水の発見は池田の山邑氏と言われ、池田から醸造の技術を持ったものが多く伊丹・西宮・灘五郷へと移転しました。
【馬借⇒中世・近世に駄馬を使った運送業者。多くは馬持から馬を借りて営業した。】
しかし繁栄を極めた酒造家たちはその財力と才覚を発揮して大いに池田の文化の発展に寄与しました。文化に貢献した主な酒造家を例に上げると,大和屋山川正宣(やまかわまさのぶ)阪上(さかうえ)()(ろう)山川(やまかわ)星府(せいふ)(墓地「本養寺」) 鍵屋荒木(あらき)(らん)(こう)荒木李谿(あらきりけい)荒木梅閭(あらきばいろ)(墓地「西光寺」) 山本屋阪上(さかうえ)(とう)(まる)(墓地「西光寺」) 麹屋(甲字屋)稲束(いなずか)()(ちゅう)(墓地「西光寺」 山城屋葛野含(かどのがん)(しゅん)(さい)葛野宣(かどのぎ)(しゅん)(さい)(墓地「託明寺」) 菊屋井関(いせき)()(げん)(墓地「託明寺」)などの人があります。(それぞれの人の詳細は、拙著「池田歴史探訪」をご参考ください。)
天保年間(18301844)には老舗に混じって新興の酒造家が出現して来ます。大和屋・甲字屋・西田屋・丹波屋・酒屋・油屋・綿屋・山城屋・加茂屋・樽屋・小部屋・豊島屋・米谷屋などです。
そして大正時代になると、北村儀三郎・北村房吉・北村富松・北村吉右衛門・北村伊三郎・岸上又吉・吉田辨吉・西田庸之助の8家となりました。
池田酒が他郷に秀でて香味優れ強くて軽い辛口酒として愛飲され、高価格にも関わらず買われたのは能勢の米・猪名川の水と言われています。また久安寺川の上流平野・多田には炭酸泉が噴出し含有する有機物・無機物・水温などが微妙に醸造発酵素と関係していると考えられています。昔「井戸の辻」と呼ばれた栄本町は、この水が伏流水として湧き出る場所でこの辺りに酒造家が軒を並べて酒造りが隆盛をきわめました。
現在は「呉春」(呉春㈱)「緑一」(吉田酒造)の酒蔵だけとなりましたが、猪名川町の「花衣」能勢の「秋鹿」とともに地酒として全国的に有名人を含め愛飲家に喜ばれています。

井戸の辻⇒昔、有馬街道・巡礼道と能勢街道の交差する池田の中心地で「高札場」(こう
中世と近世の百姓の立場の違い
中世は士農工商の身分制度が厳格に決められ職業の自由はなかった。
幾つかの家族で形成する大家族制   名代―名子
近世江戸時代の百姓は自治で村を運営し、寄合で村掟を定め
武士は生産社会との直接関係を失った
百姓は独立し家屋敷・店(たな)も持ち御公儀百姓名乗り支配されなかった。
幕府()は基本的施策意図を持たず、村から出て来る要請を調整するだけ。
村が掟を成立させる。
家族は生産の単位(現代は消費の単位)
領主の関心は年貢の増加と治安の安定だけ。「良きにはからえ」
法制度(掟・触れ)は村方が考え、代官が承認する百姓社会
慶安御触書―「たばこのむな、これは食にもならず、結局以来わずらいになるものに候、そのうえひまもかかるし、金もいる。火の用心も悪い」
「百姓」は貧しさの代名詞や差別用語は誤り   村ハ分(葬儀・火事)
近代資本主義のエネルギーは百姓から育っている。
新田開発―大規模な開墾は大河川流域の干拓(新田村)
浄土真宗の講が団結を固め共同体をつくる。顕如上人(法然→親鸞)越前越後

検地―太閤検地が有名で応じないものは撫で切りにせよ!という強行
   農民の掌握と租税の基本台帳を作る目的  測量―地詰め
   検地を受けることで所有が認められた。(登記)
年貢―検地制(毎年の作柄により決める) 一人扶持(一日米五合)
   定免制(毎年の平均収穫を基準に一定率を決める)
   江戸時代は百姓と役人との話し合いで何れかに決められた。
直轄領(天領)
幕府(大老・老中)-奉行所(町・寺社・勘定)
村役人(村方三役)庄屋(名主・肝煎り)
          組頭(年寄・脇百姓)
          百姓代(長百姓)

大名(藩主・領主)-代官)
地域に奉仕する「ほほ笑みの街プロジェクト」
「ひげの殿下」と親しまれた「寛仁(ともひと)親王(しんのう)」が国際ユニバーサルデザイン協議会の設立に当ってその理念として示された言葉がある。「100%の障害者はいない100%の健常者もいない人間は皆、身心のどこかに障害部分を持っており、なおかつ健常なる部分をも合わせ持っている」と話された。障害者も健常者も何ら変わらない、精神障害者は特定の人のものでなく、誰もが少なからず陥る障害なのだ。そして私は自身の問題として考えるようになった。
日本においては未だ精神障害者を一般社会人とは区別して扱う環境下にあり、患者として私立病院に半ば拘束状態で長期入院となり薬物療法を用いて症状を改善させる治療方法が行われている。そして障害者の社会人としての生活・就業・人権などを支援する社会環境は日本では未熟なのである。
イタリア北東部の港湾都市トリエステは古代より中部ヨーロッパへの門戸として繁栄して第2次大戦後はイタリア領となった人口21万人の国境の小都市でもある。先進と言われるトリエステの精神障碍者に対する対応はどうなっているのか、イタリアには単体の精神病院は一つもありません。1998年にバザーリアという医師によって、イタリア全土で完全に閉鎖されたからです。これに対して日本は先進国の中で病床数も入院期間も最も多い。イタリアでも1960年頃までは日本同様入院イコール前科者として犯罪者として扱われていました。バザーリア院長はナチの収容所と同じではないか?と嘆いて病院の改革に取り掛かりました。まず、病院の清掃人に化けて直接障害者に接しその行動発言についてつぶさに調査を行いました。そして障害者の正常な怒りが異常と認識されている実情を見て正常な医師と患者との対応の必要を感じ改革を進め20年を費やして1200人いた入院患者を1998年にゼロとしました。精神障碍者の精神の症状は見えないが人生の一時期の症状として外傷と同じように治療すれば健常者に戻るものであることを実践しました。悪化しても薬で抑え行動を制限することはせず、時間をかけて過去の症状や家族構成、人生の経歴、環境の変化までも調査し話し合って改善して行く粘り強く忍耐のいる治療を行ったのである。治療に画一したモデルはない!患者一人一人のオーダーメイド治療が必要であると言われた。また患者自身が自分で何かを行うことの大切さも教えられた。トリエスタの社会は障害者にとって良き理解者であり協力者であった。もと病院のあった広場は学生・患者・市民との交流の場となって相互で長時間話合い、ふれあいサポートする知識をふくらませている。患者は元に戻らない努力を続けているのだ。トリエステの人々はお互いを尊重・尊敬し、年齢差を気にせず自分の意見をズバズバと言うそして理解し合う術(すべ)をもっている。
日本人と全く違う価値観・風習・文化・言語のイタリアで行われている精神障碍者への対応がそのまま日本に受け入れられるとは思われないが、参考として
研究する必要がある。
池田市宇保町にある精神障害者地域活動支援センター「咲笑」(さくら)内の障害者の生活介護をする社会福祉法人「てしま福祉会ほのゆる」で精神保健福祉士として業務に携わる小村絹枝さんは自ら地域保健システムの研究にトリエステの現地を訪れ実情を体験してこられました。そして障害者の社会への関わりの試みとして20139月「ほほ笑みの街プロジェクト」を発足させました。プロジェクトの構成は精神障害・自営業者・飲食店業者・学生・外国人・研究者など様々な分野の人々が加わっている。
そして、皆でつくる食事会・そうめん流し・くれはまつり、てるてる広場などの地域イベントにクレープ提供などで参加・花壇つくり野菜栽培・ウォークラリー・グランドゴルフなどの事業を広げて行きました。最近では子ども食堂の運営にも関わって子育て支援にも活躍しています。活動を通じて地域の障害者に対する理解が深まるとともに障害者自身の社会への自然な関わりに変化が見え始めて来ています。プロジェクトは小村絹枝さんから引き継いで今は脇谷菜実さんがプロジェクトの今後の活動を発展させるべく頑張ってくれている。






2016年1月29日金曜日

サンケイ夕刊「夕焼えっせー」


サンケイ夕刊「夕焼エッセー」

20024月から8年間続く人気のロングセラーとなっている記事です。夕刊第1面の最下段の1段をまるまる抜いて月曜~金曜の毎日掲載されています。エリアは近畿を中心に西は広島、東は静岡までに及びます。

投稿は600字にまとめて編集局へ郵送します。毎日投稿される数10通?から一人が選ばれて掲載されます。4~5日待って掲載されなければ「没!」毎日夕刊の届くのを楽しみに待つ気持ちは期待をふくらませます。殆どが「没」となるのですから、選ばれたときの喜び感激は経験者でなければ味わうことは出来ません。

選考委員は作家の眉村 卓先生と玉岡かおる先生それと産経新聞文化部長の3名です。掲載された作品の中から更に「月間賞」「年間賞」「眉村賞」があり、表彰されます。この難しいハードルに池田市民も挑戦されています。北島邦一さん、谷田伊平さん、高原恵子さん、井上雄樹さんなどが選ばれています。

私はこれまでに7回掲載されて、「月間賞」「年間賞」「眉村賞」のすべてを戴きました。選ばれるにはそれなりの文章力は必要ですが、運やコツもあるようです。賞を取ると次は益々ハードルが高くなって、最近はボツボツボツであきらめ気味です。まぁ~ぼつぼつといきますか! H22.10.(2010)