2012年10月12日金曜日

甲ケ谷


甲ケ谷

 地名には歴史が隠されている。「がんがら火」の発祥地「城山町」は昔「甲ケ谷」と呼ばれた集落でした。「明治22年(1889)市制町村制が施行されて池田町・細河村・秦野村・北豊島村が誕生し、甲ケ谷は池田町に含まれ、昭和10年(1935)一町三村が合併し「大池田町」に包含されました。そして昭和14年(1939)大阪府で6番目の池田市制が施行され、その時甲ケ谷町は米山ノ口町と北山ノ口町と合併「城山町」となり「甲ケ谷」の地名が無くなりました。

さて、「甲ケ谷」という地名はどうしてできたのでしょうか?元は「甲賀谷」と書かれていました。そうです、忍者の里「甲賀」から来た有力な人が住んでいたのではないでしょうか。室町時代、国人「池田氏」は佐伯山(皐月山)に城郭を築き北摂の要衝として権勢を振いました。その城域内にあった甲ケ谷は寄せ手を防ぐために鉤の手に曲げられた迷路が続く内にありました。今もその趣が町並みに残されています。

滋賀県(近江国)南端の「甲賀」、三重県(伊勢国)の「伊賀」、和歌山県(紀州国)の「雑賀」は数多くの小豪族(甲賀では53家)が発生し支配を好まず、それぞれ、一族が共和制に似た談合組織を形成していましたので外敵から守る自衛手段を必要としました。山脈の連なる地形から修験道の山伏との接触が古くから頻繁にありました。彼等は山伏が持つ知識・技能・経験を学ぶと共に更に創意工夫を重ねて忍びの術を完成させ、いわゆる方術家の群れ「忍者」と呼ばれる自活の郷士となり屋敷を砦化して敵の侵入に備えました。しかし地勢上農地が少なく食い扶持に窮し技術や技能を生かして各地の領主に雇われて出稼ぎする者も多かったと考えられます。池田氏は管領細川晴元の臣、阿波の三好長慶を介して甲賀者を早くから受入れて城下に住まわせ部落を形成、地名を「甲賀谷」と呼んだ。そして甲賀者の技術を利用して防備を強化、その首領に屋敷を与え重役にまで引き上げて重用したのではないかと思われます。

戦国時代となって、織田信長は従わぬ「伊賀」を徹底的に攻め婦女子に至るまで皆殺してすべてを焼き払いました。豊臣秀吉の時代には雑賀衆も鉄砲による抵抗もかなわず支配されてしまった。甲賀衆の多くは信長に属したのでその後伊賀衆とは対照的にめぐまれました。甲賀大原出自「滝川一益」や「山岡景友」(道阿弥・八郎左衛門・備前守)などが出世しました。池田の甲賀衆は帰る郷里を失い池田に定住しますが、やがて池田氏も信長に攻略され甲賀衆と共に没落の悲運となりました。現在は山岡家が有るが山岡景文との関係不明です。他に甲賀と名乗る子孫も見当たらないが、技術者・職人の職業を持つ人々が多いのは甲賀の血を受け継いでいるのではないかと考えさせます。

一方忍者が学んだ山伏たちは江戸時代に家康に統制されて真言宗醍醐派(当山派)と浄土宗本山派のニ派に所属することとなりました。城山町は当山派、建石町は本山派に属し昔から両派は対立し諍いが絶えませんでした。正保元年京都の愛宕火が池田に飛来したと言う事件は4人の造り酒屋が起こしたとされていますが、実はこの山伏と甲賀衆とが造り酒屋の黒子として流言を放つなど活躍したと考えています。現在五月山秀望台にある池田愛宕神社の一の鳥居は元禄4年甲賀谷村が奉納したものです。甲賀衆は池田にこの様な足跡を残しているのです。地名は昔を語る縁(よすが)を残します。簡単に変更したり、無くすことがないように願っています。              2012.10.

 

0 件のコメント:

コメントを投稿