2012年11月12日月曜日


 

池田の力士「猪名川」八百長・美談?
 
11月11日より大相撲九州場所が始まりました。ちなんで池田と相撲との関わりに
ついてお話をします。
昔から池田は相撲の盛んな土地柄でした。市内の寺院の墓地には15基ほどの関取の墓石があります。墓石は大形で一目にそれと解ります。昔は各小学校には土俵がありましたし五月山にも土俵があって相撲大会や興行相撲も行われました。
相撲が池田で盛んになったのは五月山の「愛宕神社」に由来があります。愛宕神社の祭神は火之迦(ひのか)具土(ぐちちの)大神(おおかみ)(たけ)(みか)(ずちの)大神(おおかみ)佐伯部(さえきべ)()(しん)の三柱ですがこのうち(たけ)(みか)(ずちの)大神(おおかみ)は武神で相撲道の祖神とされます。その縁起から神社の石段下自然の浅い谷(現在はアジサイの花壇)を利用しておあつらえ向きの相撲場として土俵を築き毎年8月24日の縁日には昼間から盛んに相撲が行われていました。また猪名川の河原でも相撲の興行が開かれまた。
相撲は弥生時代から稲作に伴う農耕儀礼として原始的な形式がありました。これが奈良時代天皇家に取り入れられ年中行事として七夕の余興に行われるようになり、やがて平安時代には国家行事となって七月七日「相撲節」(すまいのせち)となりました。この起源は
日本書紀の巻第6垂仁天皇7年7月に天皇は当摩蹶速(たいまのけはや・たぎまのくえはや)と言う天下の勇士がいると聞くが、これに比するものはいないのか?と問われた。
すると臣下の一人が出雲の国に「野見宿禰」(のみのすくね)と言う勇士がおりますと答えました。そして7月7日二人の決闘相撲が帝の御前で行われ、野見宿禰が当摩蹶速に勝利し朝廷に仕えることになったことが書かれています。以来「野見宿禰」は力士の始祖とされています。
江戸時代になると力士は関取とよばれて職業化して寺社の奉納相撲・勧進相撲として興行相撲が各地で催されるようになります。関取の階級も創られ大関・関脇・小結・前頭・
十両となり大関が最高位でした。横綱の位が出来たのは明治42年(1909年)からでそれ以前の力士大関には横綱免許が与えられ初代横綱は「明石志賀之助」と伝承されています。
さて、「関取千両幟」として浄瑠璃・歌舞伎となって今も上演されている芝居のヒーローは池田の関脇「猪名川政右衛門」です。相手の関取は大阪天満の「千田川吉五郎」で芝居では「岩川」と「鉄ケ嶽」と言う名で登場します。話の筋書きは、岩川(猪名川)のひいき客「鶴屋礼三郎」は新地遊女「錦木」(にしきぎ)とねんごろとなり身請けをしたいと
200両を用意していました。ところが相手の鉄ケ嶽のひいき客「市原九平太」も錦木に
横恋慕していて悪巧みを働き岩川の200両を騙し取ります。岩川はそれを聞いて金を取り返しに乗り込みます。すると九平太は俺のひいきする鉄ケ嶽に負けてくれたら返してやろうと難題をもちかけます。悩んだ岩川は礼三郎の義理からやむなく八百長を承知して帰ります。そして鉄ケ嶽との対戦の当日、土俵に上がると、客席から「200両進上!」の
声がかかり、それを聞いた岩川は喜び八百長をひるがえし鉄ケ嶽を投げ飛ばし勝ち名乗りと賞金200両を受け取り勇んで家に着くと恋女房「おとわ」が駕篭に乗せられ遊里へ身売りされるところでした。女房に聞くと夫の八百長を阻止するため自ら身売りを決めて200両を工面したと泣く泣く伝えられました。愕然とした岩川は女房の心情に打たれ呆然と立ちすくむのでした。この芝居の初演は大阪竹本座で明和4年8月猪名川29歳の時でした。芝居の上演で猪名川・千田川の取組みは人気が上がり場銭も高く、客の賭金が大きくなり家を賭ける者も出たと言われます。やがて猪名川は江戸相撲にも出る人気力士となり江戸での総取組み145場で勝星91負星23の勝率8割の成績をおさめました。
八百長問題が角界に激震をもたらしたことがありましたが、西光寺(新町1-1)にある墓で猪名川関はどう思っているのでしょう。

 猪名川政右衛門の経歴

 元文4年(1739)池田に生まれる。幼少より力持ちで愛宕の相撲場に足を踏みいれる。
          本名次郎吉。酒造家「多田屋」(菰印猪名川)出身

宝暦 3年(175315歳で大阪藤島部屋に弟子入り

宝暦 6年(17565月初土俵17歳 四股名を「猪名川」と名乗る。9月番付に載る

宝暦12年(1762)入幕東20枚目

明和 5年(176810月前頭筆頭次郎吉を政右衛門に改名30

明和 6年(176910月東関脇となる

寛政 4年(17927月引退藤島部屋2代目となり弟子を指導する

寛政12年(1800109日大阪伏見堀で62歳で没す
           墓地は辻ケ池「梅誉庵」から「西光寺」に移される
           戒名は「旭誉円月岳映禅定門」

酒造家「多田屋」は川西市西多田の木下家で池田に出て酒造を始める。
      酒の銘は「猪名川」で正保元年(144)がんから火事件の画策に関わった当主の
      一人です。
*猪名川関の活躍した頃の大関は「谷風梶之助」と「小野川喜三郎」の時代でした。

  ちゃんこ鍋
大阪場所のあったとき、「黒海関」のいる追手風部屋へ「ちゃんこ料理」の招待を受けて行って来ました。その部屋は堺市の「百舌鳥八幡」の境内にありました。親方は元大翔山で神社の社殿の畳部屋に中華料理の丸テーブルの脚のない食卓をいくつか置いた宴席でした。料理はすべて弟子たちの手作りのものです。「ちゃんこ」は「おっさん」の意味で部屋の料理人を指します。「ちゃんこ鍋」と「よせ鍋」の違いはちゃんこの場合メインの食材が一種で今日は「魚」次は「豚肉」「鶏肉」などになります。たまげたのは食器で大振りの塗りのお椀のみで料理もご飯もお茶もビールもすべてこの器で飲み食いするのです。お椀で飲むビールの味は何とも異様なものでした。食器や料理の飾りつけ・彩りなど五感で楽しむ料理に慣らされている日常の食事と唯相撲の体力を付けるための目的で作られる料理との違いを知らされた思いでした。しかし味は抜群に美味しいもので秘訣が隠された、ちゃんこ料理です。食事の接待役もする「若い衆」は給料もなく、朝6時半から稽古に励んで、関取と呼ばれる10両を目指して唯場所で「勝つ」ことだけに集中している姿に感動を受けました。                        
                                 2012.11.12.

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