2013年2月15日金曜日


「めんも楼」と木綿屋細原茂兵衛

ハローワーク(職安)から東へ池田文庫まで急な坂道となっています。この坂を「めんも坂」と言います。「めんも」は木綿屋細原茂兵衛の「綿茂」を意味します。坂の途中に初
代木綿屋細原茂兵衛が「めんも楼」と言う料理旅館を開業し、洋食も出す評判の店で坂の名前になる程に随分と繁昌しました。
日本に西洋医学を伝授した長崎出島のオランダ商館医師フイリップ・フォン・シーボルトは有名ですが、その次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトもまた明治2年父の足跡を偲びつつ来日し、オーストリア日本公使館書記官となりました。在日中彼は「めんも楼」へ度々食事に訪れました。三代目茂兵衛の頃、娘の「細原はな」はめんも楼で接待役として働いていましたが、ハインリッヒの目に止まり国際結婚として世間を騒がせながら明治
18年大阪府知事「建野郷三」の媒酌で「はな」20歳のとき結婚をしました。しばらくは平穏な結婚生活が続きハインリッヒとの間に一女をもうけましたが、不幸にも早世させてしまいます。11年の月日が流れ「はな」31歳のときハインリッヒは帰国を命ぜられます「はな」は両親と夫との愛のはざまで悩みますが両親の願いを受入れてハインリッヒとつらい生き別れの道を選びます。その後「はな」は両親に孝養を尽くしつつも侘びしい厭世の日々を送りました。ハインリッヒは明治41年ウイーンで別れたまま病没。「はな」は別れて32年目昭和363歳のとき大広寺「毒湛(どくじん)禅師(ぜんじ)」に帰依(きえ)し、夫ハインリッヒ追善(ついぜん)のため「大乗(だいじょう)(みょう)(でん)」を写経し地中に埋め立派な七層「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」を大広寺墓地に建立し冥福を祈りました。「はな」は昭和1272歳で他界され、今も宝塔に添うように墓地に眠られています。


 
 

池田の木綿(きわた)の栽培とその謎

 毎朝池田駅の近くの銀行の1階にある喫茶店に出かけて、ひと時コーヒーを飲みながら新聞を読むのが日課となっている。この喫茶店のスタッフに木綿(きわた)と言う名前の可愛い女性がいる。珍しい苗字なので住居を聞くと「神田」(こうだ)に曽祖父(ひいじじい)以前の代から住んでいるそうである。神田には現在も「木綿」姓の方が10戸近くあって、また「めんも楼」の木綿屋細原茂兵衛の「細原」姓の方が10数戸もある。神田に纏まって木綿にまつわる方々がおられるのが何故か興味深いところである。

木綿(綿の木)は1200年も前、平安時代に中国から伝来し、16世紀頃からアジア木綿が栽培されるようになった。江戸時代からは稲作と同じ「表作」(おもてさく)として5月初め(八十八夜)に播種(はしゅ)され、秋に綿花と種子が収穫される。綿は布団や衣料に、種子は綿実油(めんじつゆ・わたあぶら)として食用・石鹸の製造などに使われている。現在は殆ど輸入されているが、江戸時代は全国的に栽培されていて、池田でも小作人によって広く栽培されていました。同時に池田は在郷町として物資の集散の機能があり、川辺郡(川西・伊丹)からも実綿を集め仲買人(中問屋)として大坂天満市場に流通させる業者、また繰綿(綿花を繰って種子を取り去ったもの)に仕立てる業者・糸繰り(綿から糸にする)加工職人など農業生産の一翼を担う存在となっていました。江戸に送られた「池田木綿」は「池田大本上糸口」と称されて品質最高の名代の繰り綿でした。しかし仲買人の買い叩きや市場への直売などに奉行所の統制が厳しく、やがて大量の村々の集団訴訟にまで至り幕府の封建支配の崩壊現象の一つともなり混乱しました。
今一つ木綿の生産に大きな変化をもたらしたことがありました。それは「大和川の付替」
という大事業が元禄17年(1704)行われたことです。、古来河内平野では幾筋もの川が網の目のように蛇行し、大雨が続くと洪水となり流域住民は苦難に悩まされていました。
工事は柏原の船橋を起点に延長14.・5km、川幅180mに及びますが、僅か8ヶ月で完成されました。そして干拓による多くの「新田」が生まれました。しかし新田は砂地で水稲耕作には適さず綿・麦・菜種などが栽培されました。なかでも木綿は大々的に生産され後に「河内木綿」として有名になり、現在の岸和田「和泉木綿」の元となりました。

 池田はこの影響によって競争力を失い木綿生産は衰退することとなりました。話は変わりますが、例年伝統の行事として行なわれる「がんがら火」の元火として8月24日午後1時から愛宕神社境内で「柴燈護摩供養」が行われますが、この時参集する愛宕社の信者は殆どが東大坂・河内(初芝)の信者で、池田の信者はいないのです。池田の愛宕神社の
祭りと言うのに、ここに謎があるのではないでしょうか?私の全くの仮説ではありますが
江戸時代後期池田の木綿小作人が大量に大和川の新田に移住したのではないでしょうか、
そして池田愛宕社の信者として8月24日の縁日に参集する故事となって、今も続いているのではないかと推測しています。「くれは・あやはとり」の絹の文化の池田では木綿の文化は根付き難かったのだろうか。

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