2013年3月12日火曜日

猪名川にまつわる歴史のお話


猪名川にまつわる歴史のお話

猪名川の清流と五月山の緑は、池田に豊かな自然を与えてくれています。その自然にいだかれて先史時代から人々はこの地に生活し、さまざまな歴史をつづり文化を育くんで来ました。その猪名川にまつわる歴史のいくつかを紹介させて頂いてそれが郷土愛の糧とな
 れば幸いです。

 猪名川は川辺郡猪名川町の篠山市との境界にある「大野山」(753m)を源流として槻並川(つくなみがわ)阿古谷川(あこだにがわ)・野尻川の流れを合わせて多田盆地に入ります。そして一庫大路次川・余野川などの支流と合流して尼崎戸の内町で神埼川と合流する所までの43、㎞を猪名川と呼びます。【尼崎・戸の内モスリン大橋のある場所】
昔の記述では猪名川は
「有馬郡能勢国北方の深山より出で東西の川に別れ東は久佐々川(くささがわ)・西は美度奴川(みとぬがわ)と言い、両川ともに南に流れ畝野(うねの)で合流す、これを「為奈河(川)と呼ぶ」と記されていました。
また猪名川の名称について、川辺に山直(やまのあたい)阿我奈賀(あがなが)【律令時代の地方行政官・郡司】が住んでいたので「阿我奈賀川」と呼ばれていたのが訛って「いながわ」となったと伝えられています。

池田井堰(いせき)空気膨張式
 五月山は昔、佐伯山と呼ばれていました。それは佐伯部が五月山に城塞(じょうさい)を築き立てこもり、朝廷に食糧などを献じていました。現在の木部町は城辺(きべ)とも書き、五月山を城辺山とも呼ばれていました。仁徳天皇38年佐伯部が兎我野(とがの)【大阪市北区堂山町・茶屋町一帯】で牡鹿を狩りして天皇に献上しましたが、この頃天皇は心が沈んでおられ、この鹿の鳴き声で癒されておられた。その鹿を殺されたので傷つかれ、佐伯部を安芸に移すように命じられた。と言う記録があります。【佐伯部は以前蝦夷にいた頃大和政権に服従せず辺境の民の蔑称として土蜘蛛と呼ばれた】阿我奈賀(あがなが)も蝦夷地から連れてこられた人で「阿我奈賀川」が「為奈川」にまた「佐伯山」が「五月山」に名称が変わったのは米谷(まいたに)の「売布神社」に祀られていた豊受姫(とようけひめ)が伊勢外宮に移られた頃と同じ時期となっています。なにか変事があったことが考えられます。

 応神天皇31年武庫の湊(西宮・尼崎辺り)に多数停泊していた軍船に新羅の船が失火
類焼した事件がありました。天皇は新羅に抗議したところ新羅王は責任を取り、新羅から
造船の匠を天皇に朝貢し為奈県(いなのあがた)に居をおきました。この技術集団一族を
猪名部(為奈部いなべ)と呼び船大工の始祖となりました。猪名川一帯の良質の木材を伐り出し猪名川を利用して材木(杉材)を運搬し多くの船が造られました。日本書紀に神功皇后が西国出兵の時、神託で三草山(古名美奴売山みぬめやま)の大杉で船を造らせた記述があります。

架け替前の絹延橋橋柱
 流域の北田原に渓谷美で有名な「屏風岩」があります。猪名川の自然が造り出した奇勝です。高さ30m幅100mに及ぶ岸壁が屏風を立てた姿でそそり立っています。古くから北攝随一の名勝地として知られ平安中期の花山法皇も訪れ称賛した記録があり、「摂津名所図会」にも「春は花秋は紅葉とかわるのは屏風の岩の名画なりけり」と紹介されています。ここに食堂があって今井病院に薬品を配達後いつも食事をしていました。なじみとなって「豊臣秀吉の埋蔵金が間違えなくある!一口乗らないか?」と誘われたことがあった。この一帯には銀・銅の鉱脈があって多田銀山と呼ばれて秀吉の財政を潤していた。遠くは奈良時代に遡り東大寺の大仏の鋳造に多田の銅が使われた記事があり、源満仲も銀・銅の採掘を目的に多田に来たとも言われています。広根(川西能勢口駅より阪急バス後川行広根下車・猪名川町銀山字瀬戸)には多田銀山跡があって江戸時代の代官所跡や金懸・瓢箪・千石・台所などの間歩(坑道)が随所にあります。埋蔵金は果たしてあるのか?

 平安末北面の武士として鳥羽上皇に仕えた歌僧「西行」は旅の始めに源氏発祥の地川辺郡多田へ向かい「鼓ケ滝」に訪れます。そこで老夫婦に出会い歌を乞われ「伝え聞く鼓ケ滝に来て見れば沢辺に咲くたんぽぽの花」と歌いました。すると老夫婦はこの歌を「音に聞く鼓ケ滝を打ち見れば川辺にちちと白百合の花」と歌い返しました。【鼓の音はチチポコタンポポと表現されます】その夜夢枕に歌聖柿本人麻呂と住吉大神が立ち老夫婦の正体が解りました。講談の一節です。住吉神との関わりは多田には多くあります。

源満仲が住吉神社に参った夜、夢に住吉大神が現れ「白羽の鏑矢を空に向け射よ、その矢が落ちた所を尋ねて住むべし」と告げられ多田庄に来ました。矢の落ちた場所は現在も地名として「矢問」(矢当)があります。近くには湖があり、頭が九つある大蛇が二匹棲んでいました白髪の老人が銀の矢を差し出してこの蛇を退治するように告げて消えました。満仲はこの矢を放ち一匹の大蛇の目を貫き湖水を真っ赤に染め死に、あとの一匹は瀕死の重傷で鼓ケ滝を蹴破り湖を決壊させて下流に逃れ小戸(おおべ)で死んだとも池田(建石町)で息絶えたとも言われ、東多田の九頭大明神・小戸神社の白龍稲荷・建石の九頭龍稲荷として祀られています。白髪の老人は龍門寺の地蔵尊だったと伝えられています。洪水の水は滝のように流れ多田一帯が肥沃な土地となり「田田邑」(ただむら)となりました。滝山と言う地名も残っています。西光寺に大蛇の骨といわれるものがあります。鼓ケ滝の下流には「鶯の森」と言う優雅な地名があってこの淀みはかって水泳場となっていました。さらに下ると「火打」と言う地名があります。何故こんな地名があるのでしょうか?その東長尾連山には「釣鐘山」があって、昭和初期まで釣鐘の火文字が点けられていましたが、そのすぐ北東に「石切山」があります。名前の通りこの山は岩山で長尾山古墳群はここの石で造られました。江戸中期になって「火打石」があることが解り火打の住民がこれを採掘し猪名川を船で姫路まで運び、姫路城主「池田輝政」に頼り全国に販売を委託しました。火打石が使われなくなった後も、姫路はマッチの生産量日本一盛んでした。その後火打は皮革のなめし業に変わり、移転後も姫路との関係が続いています。

織姫伝説の一つ「絹延橋」も最近架け替えられて立派になりましたが、上流には染色工場が最近まであって昔さらながの「友禅流し」が行われていました。中橋の上流には織姫が上陸したと伝えられる「唐船ケ淵」があります。当時は海が大きく入り込んでいて淵となっていました。中橋の川下に昔から灌漑用の堰が造られていました。「池田井堰」と言います。この堰によって絹延橋から中橋の間は淀みとなって豊富な水の溜まりとなっていました。この辺りでは大正の初めから昭和16年頃まで「貸しボート屋」があって50隻ものボートが川面に浮かぶ憩いの水辺でした。当時「人取岩」「助け岩」と呼ばれて遊泳する人々が恐れた大きい石が今も残っています。昔は馬借との権利争いもありましたが、猪名川の舟運も盛んでこの川辺の住宅には裏口に船着場が設けられていました。巡礼橋と呼ばれた「呉服橋」は24番札所「中山寺」への参詣と池田への玄関口として往来が賑わいました。

最近さらに下流の猪名川沿いにサクラの植樹がされることが決まりましたが、呉服橋付近の堤に護岸のための椋の木が植えられて「権田堤」と呼ばれていました。今も何本かの古木が生きています。猪名川の上流から下流へとたどり、まつわる歴史の一部を紹介しましたが、まだまだ書き切れない話が沢山あります。
 
H22年「古墳時代の猪名川流域」の本が出版されましたので、古墳・遺跡などは省略しました。

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