2013年9月26日木曜日

池田の文化と老舗


大阪の老舗と文化

  北摂の街道と在郷町の賑いがうみだした池田の文化と老舗

                 大阪商業大学大学院特別教授 前川洋一郎

1.    はじめに

池田市は大阪府の北西にあり、旧石器時代、古墳時代からの人々の生活の跡が残っている。古代より摂津国で現在は北摂とよばれる地域である。

2013(平成25)年4月現在、45千世帯、103千人、事業所数3600の中小都市である。大阪都心にも近すぎず、遠すぎずの、自然と歴史に恵まれたベッドタウンである。歴史的には中世から主要街道の交差する要衝となっている。統治者も坂上氏より池田氏にかわり、戦国時代には荒木村重、織田信長にほんろうされた。江戸時代に入ってからは麻田藩青木家、一橋領、旗本領、直轄天領など行政統治が細分化された上、頻繁な交代があり、却って経済生活の自由度が高まり、一部は町人主体で運営する町となったのである。地勢的には、主な街道は能勢(池田道、大阪道)西国(山崎道)であり、この他、余野(久安寺道、亀山道)巡礼道(中山道)有馬道、高山道がある。まさに四通八達の交通便であった。大阪と池田は徒歩でほぼ1日の距離であり、今の国道171号線にあたる西国街道は西日本の幹線である。そして、北摂の山地と谷口で出来る山の幸や炭、植木と周辺の米、水、そして池田の酒が、街道の馬運や猪名川の水運も利用されて池田に集まり、月の内12回市がたち、大阪や京の産物と取引されたのである。北摂最大の通過交易都市だったのである。

2.    池田の伝統産業

歴史的背景と地勢的条件をもとに、北摂における特産物、三白三黒というのがうまれた。三白とは、米、寒天,高野豆腐であり、三黒とは、栗、炭、牛である。今はその面影はない。今も残る伝統産業としては、植木、炭、酒があげられる。歴史をひもとくと、1657(明暦3)年に幕府が酒造株を設定し、池田村では42株が認定されている。1773(安永2)

年には大阪天満の植木仲買と池田の植木屋との間でもめごとがでている。

1832(天保3)年には、池田村の炭問屋と大坂の炭問屋との取引の記録がある。これら池田酒、池田植木、池田炭は今も全国的高級良質なものとして有名であり、伝統産業といえる。

3.    今も日本一の池田植木

池田細河地区の植木は、愛知の稲沢、埼玉の安行、福岡の久留米と共に、日本の四大植木産業といわれる。なんといっても400年の歴史と温和な気候、排水がよく湧水の多い土地に恵まれている。明治以降植木専業となり、6つの旧村では各々特色のある樹種を扱い共存している。池田市細河園芸農業協同組合の話では、戦前380の業者が今は280業者であるが現在も日本一である。その中で江戸・明治から続く老舗の植木屋は天保年間創業の薮内養内園や同じく江戸よりつづく苔樹園などをはじめとして、江戸明治から続く主な老舗の植木造園業は【表1】(略)の通りである。土地という大きな固定資産とともに、人手伝いに技術を代々承継するので、最近は後継難である。又、生活家屋様式の変化で事業内容にも工夫がいる。従って、農協として月9回の植木市を実施し、若手は細河植木塾をして業界、組合の支えをしている。

4.    茶の湯、高級向け池田炭

池田の炭は猪名川上流域で生産されたものを池田に集散取引されたことから、池田炭とよばれている。池田炭はクヌギ材を使い、火もちの良い高級炭で切り口が菊のように美しいから、菊炭ともいわれる。千利休が用いて有名になったが、茶の湯では今も重用されている。明治には薪炭商の組合をつくり、大正には池田木炭株式会社をつくり、振興を図ってきたが、戦後の燃料革命と職人技の後継難で現在炭焼は江戸以降の2軒と明治以降の1軒の3軒である。市内の炭問屋は最後まで残っていた蔵田燃料店が昨年廃業し、今は炭しょっぷ・だんが、炭専門店を第二創業し、池田の伝統を守っている。

5.    味が自慢の銘酒池田酒

池田酒といわれる酒造は、中世より始まったと伝えられ、伝統産業の大きな柱であった。交易都市ならではの良質な米と豊かな水、すぐれた杜氏の集積によってできた。池田酒は大坂城攻めの徳川家康へ陣中見舞として献上したことで、家康御朱印の禁制状が与えられ、それが池田の特権の象徴になったのである。近世になって江戸に流通され、元禄期は最高の隆盛であった。明暦期には42軒の酒造家が、元禄期には38軒が登録されている。しかし、江戸後期には海運という地の利と宮水をもつ灘五郷におされていき、文政期には17軒となり、明治から大正にかけて10軒、戦後は4軒となり、今は吉田酒造と呉春の2軒である。業祖から数えて300年超の酒造元を1865(慶応元)年に引継いだ吉田酒造は、阪神大震災による大壊滅をのりこえて銘酒「緑一」を守りつづけている。江戸期創業といわれ、池田で有名な酒造家の西田屋につながる銘酒「呉春」は今も全国で品不足状態の人気である。

6.    衰退した池田木綿と頑張る大阪うどん

伝統産業の一つに池田木綿があった。古来日本各地で木綿の栽培は衣料用、油用として盛んであった。ここ池田の木綿は品質がよく江戸で評判であったが、時代とともに衰退していった。もうひとつ、伝統産業といえるかどうか迷うが、池田市内を取材調査していて、「うどん」が目につくのである。戦前からの製めん所が2社、吉野商店と丸正製めんがある。食堂としては元治元年創業で150年近い歴史があり、大阪で最古のうどんの一つといわれる、ささめうどんが有名な吾妻を筆頭に、おいしいうどん食堂が数多くある。どうしてか?池田は江戸時代より交易通過都市で最高の原材料が集まる。そして、人の往来が多いので、お昼ごはんがわりにうどんが重宝された名残という。

日本の三大うどん、秋田の稲庭、名古屋のきしめん、四国の讃岐についで、大阪の細うどんが有名なのは、こんぶ・かつおのだしつゆが特徴で、だしと喧嘩しない、のどごしよりも食べやすさが自慢だからである。しかし今は全国的にファストフード並みの価格の過当競争で、大阪府下の製めん業者は戦後400社近くあったのが、今は50数社である。その内、池田箕面にも10社あったが、今は2社となっている。

7.    池田文化は旦さんの文化

池田にこうした伝統産業が育ったのは、農村地帯でありながら商工業者が集積する在郷町であったからである。そして経済の発展と共に生活が豊かになり、大商家が生まれ、精神的余裕から京・大坂の文化人を招来し、上品な遊び、いわゆる旦さん文化が興隆したのである。これが北摂の池田文化である。中世の室町時代には、支配者池田氏のもと、連歌師牡丹花肖柏が来池し、池田文化がはじまったと言われる。江戸時代を通じて池田の町では俳諧・漢詩・絵画などの文化が興隆した。儒学者で漢詩人の田中桐江が隠棲し、漢詩文の結社・呉江舎をおこし、多くの漢詩人を育てたり、狩野派の画家、桃田伊信が登場したり、黒松光仲が石田梅岩の心学に感銘をうけ、立教舎という教室を設け、商人の教化につとめたという。日本を代表する四条派画家の呉春(元姓・松村月渓)が来池し、俳諧や詩曲を多芸多才に楽しんだ。商人の間にもたしなみ芸事が浸透し、句会や画の収集も盛んになっていった。その延長線上に庶民の間にも大衆娯楽が盛んとなり、明治時代にはいり、芝居小屋の呉服座(「くれはざ」とも「ごふくざ」ともいう)や落語寄席中心でのち映画館となった明治座が創設されている。それが平成22年、新しい大衆演劇の池田呉服座として名称が復活している。又、江戸時代の古典上方落語に池田が舞台となる作品が2つあるほど、池田は落語のまちともいわれている。平成19年落語みゅーじあむとして資料館が誕生している。アマチュア社会人落語家の育成や出前寄席などで文化の活性化に尽力している。

8.    明治以降の近代化

小林一三が1907(明治40)年、箕面有馬電気軌道を設立。1910(明治43)年に大阪梅田~宝塚間、石橋~箕面間を開通させ、乗客誘致のために積極的に沿線の観光(箕面動物園)、娯楽(宝塚温泉)、分譲住宅地(室町)の開発などをすすめたのである。これらが小林阪急文化ともよばれるもののはじまりである。この頃、1894(明治27)年に西宮銀行の池田支店ができ、翌年には地元酒造家の北村家が摂地銀行を設立した。さらに明治末地元問屋商人の清瀧家が池田実業銀行を設立。1917(大正6)年には大阪の加島銀行・池田支店が開設された。このように北摂の経済中心地として交通・金融のインフラがととのうとともに、昭和22年から50年まで、市長をつとめた武田義三市政が都市のビジョンと骨格をしっかりとまとめ固めていったので、池田の近代化は加速したのである。おかげで現在では、室町の住宅地開発、ダイハツのミゼット、日清食品のインスタントラーメンが日本の「三大事はじめ」として市のPRになっているし、大阪府下有数の上品で文化的なベッドタウンとして人気が高いのである。

9.    池田の老舗

平成22年12月16日現在の帝国データバンク資料によると、池田の老舗は10社で出現率は21%である。全国198%や大阪の147%より高い。内訳は明治時代の創業が大半で第3次産業の流通サービスがほとんどで、規模は中小である。しかし、池田の歴史と文化を考えると、少ない数字である。出現率2・1%を2012年民力の民営事業所数にかけて逆算推計すると、老舗が80社以上あってもおかしくないと思われる。そこで、古い文献資料にあたると、「池田学講座」(池田市教育委員会平成20年)の95頁、1697(元禄10)年の池田村住民の職業別戸数では、商人が239で食品関係が108、衣料日用品関係が84、その他が47である。職人は28である。2桁の数がある職種は酒屋、米屋、茶屋、古手屋、小間物屋、問屋商、大工、紺屋である。1921(大正10)年の「池田町便覧」では、広告掲載主247の内、会社商店は224である。主な職種は、酒小売13、呉服悉皆13、文具本10、食料品12、建設工事16が目立つ、この中で現存するものは11社である。吉田酒造、新田秀三郎商店、山口鳳声堂薬房、平井綿店、樽五郎商店、谷時計店、はむろや薬房、吾妻や本店、水田国重、甲川正文堂、明珍商店である。次に「目でみる北摂の100年」(富田好久 郷土出版社1995年)で探がすと、うどんの吾妻、製めんの吉野商店、池田実業銀行、提灯、旗、のれんの福司商店がみつかる。さらに引札を調べると、池田市立歴史民俗資料館に12点と、町づくりと町おこしをめざす産官民共同出資のいけだサンシー株式会社引札屋に9点あり、現存するものは、江戸末期の酒造から小売に転じている今仲酒店と、明治初めよりなんでも屋から今の文具店になった前川紙店の2店である。ということで、文獻上も老舗が少ない。しかし、あきらめず「昭和初期の町並み」(「昭和初期の池田」平成7年)地図を片手に、郷土史研究家の中岡 嘉弘氏の助言をいただきつつ、古老にもあたっていくと、犬も歩けばではないが、筆者が市内を歩けば歩くほど、老舗に出くわし親切に対応いただき、うれしく驚いたのである。結果、江戸時代創業が10社、明治時代創業が15社、明治末から大正にかけての老舗の予備群21社、(植木業を除く)

を加えると、合計46社を知ることができたのである。特徴としては、大阪から移転組のメーカー、あられの「とよす」、ジェネリックの「鶴原製薬」、軽自動車の「ダイハツ工業」、薬の「目黒研究所」が池田の産業振興に貢献している。インフラ産業で市の文化振興に協力してきた、阪急は登記上本店が今もあり、池田銀行は池田泉州銀行となっても歴史的建物に池田営業部をおいている。さらに他の町と比べて、薬局、文具、表具、看板広告の老舗が目立ち、酒造業からの転業組もある。今、池田市はまちなみ保存整備事業で駅前からの商店街、昔の街道筋がメインストリートによみがえりつつある。小京都ではなく、ちょっとした小明治のレトロとロマンがある。明治から大正への近代化途上にうまれた老舗が「のれん」と「池田のよさ」にあぐらをかかずに競争共存している。鉄道唱歌61番にもでてくる池田の町は旧国鉄が通らず、百貨店も誕生せず、地産地消でいきのこってきた。それがかえって、バブルがおわり、メガ流通戦争が遠のき大型量販店に縁遠い中で、結構明るく元気な町となっている。池田を取材巡回していて気候の暖かさよりも人の「あたたかい町池田」の歓迎たれ幕を見て住みたくなる感じである。空港のある町というよりも、「老舗と文化」が息づく町で明日が楽しみである。

(表は略しました。中岡 嘉弘)

「大阪春秋 秋号」100103頁 転載)           2013.9.26.
 

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