2014年1月15日水曜日

和泉式部と藤原保昌


和泉式部(9731040?)と藤原保昌(9571036

「百人一首」や「和泉式部日記」で誰もが知っている平安中期の女流歌人として中古三十六歌仙の一人に数えられている和泉式部が晩年池田に住み、そのお墓(供養塔)が池田市古江町「無二寺」(無二庵)墓地に在ることを知っている人は少ない。そして和泉式部はともに小倉百人一首に名を連ねる紫式部(源氏物語)・清少納言(枕草子)伊勢大輔などの才女と共に第66代一条天皇(9801011)の御代に中宮「上東門院彰子に仕えて交わりを結んでいたことを思うと感慨深いものがある。和泉式部は容色も麗しく和歌の才に秀でた才媛であったが、生涯はすこぶる波乱に富み数奇を極めた人生を過ごした女性であった。池田に住むに至った彼女の生涯を振り返って見よう。式部の父は越前守「大江雅致」太皇太后宮の上級官吏木工頭として仕え、母は平保衡の娘で教養高く豊かで恵まれた良家に育った。(大江氏は土師宿祢として代々学者の家柄)長ずるに従い王宮の人気を独り占めする才媛として宮人の噂の絶えぬ存在であった。式部16歳の頃、父の仕える同じ太皇太后宮の官吏「和泉守橘道貞」と結婚し和泉式部と呼ばれることになった。橘道貞との間に一女「小式部内侍」をもうけ後に小倉百人一首に選ばれる歌人となった。式部は才知と共に男性を引き付ける容姿に満ち、情熱的で感情の起伏が大きく何事にも前向きで過去に捉われることなく奔放な恋に生きる女性だった。このような性格からか夫、橘道貞とは不縁となり離縁し、一人で過ごす内に冷泉天皇の第3皇子弾正宮為尊親王の寵愛を受ける身となった。親王の母は藤原兼家の娘「超子」で宮は兼家の孫に当たる。親王は美貌の聞こえ高く女性との乱行のためか26歳の若さで病没された。式部とは短い間のことであったが宮との死別に悲嘆に暮れた日々を過ごしていたが、亡くなった弾正宮への思慕がはからずも弟宮「敦道親王」(帥宮)との縁が結ばれる糸口となった。和泉式部日記はその帥宮との2年間の恋の道を和歌で綴った作品である。(1003~1004・1007編纂)しかしその帥宮も亡くなり、式部は再び心の寄る辺を失う不幸に見舞われることとなった。帥宮と死別し宮の恩愛を偲んで悲しみの内に喪に服していたが、一年余りたって一条天皇の中宮上東門院の出仕することになって間もなく門院彰子の父藤原道長の家司「藤原保昌」と再婚することとなった。(宝塚市平井の出自、源頼光と共に武勇に優れた人物で丹後守となり後大和守そして摂津守となり式部と池田に住み103679歳の長寿で没した。)式部は寵愛された二人の宮に先立たれ、娘小式部内侍も若くして失い、やがては夫、保昌とも死別。寂しさのなか尼となり仏となった人々の菩提を弔いつつ60数歳で亡くなったと伝えられる。式部の一生は心情の赴くままに波乱の生涯を遂げた反面、悲しい運命の節々を数千首の和歌に残して現代に、そして池田に遺跡を留めている。

和泉式部日記の真の作者は藤原定家の父「藤原俊成」ではないかと言われている。また式部の生地・墓所と称するものが各地にあります。墓所として一番有名なのは京都中京区新京極六角下ル中筋町の真言宗泉涌寺派「華岳山 誠心院」で俗に和泉式部寺と呼ばれている。寺は藤原道長が式部に与えたと言われ、本尊阿弥陀如来は上東門院藤原彰子より賜ったと伝えられる。墓は石造宝篋印塔で正和2年(1313)。忌日321日法要が行われる。

和泉式部 年譜(年代・年齢はすべて推測)

973          大江氏邸で出生

992  16歳     橘 道貞と結婚

999  20~23歳  弾正宮為尊親王・帥宮敦道親王との死別

1007  31歳     和泉式部日記 編纂成る

1008  32歳     上東門院 彰子に仕える

1009  36歳     藤原(平井)保昌52歳と再婚

1025  49歳     娘 小式部内侍と死別

1036  63歳     夫、保昌79歳と27年間過ごし死別

1040  67歳     尼となり没する

小倉百人一首

あらざらむ この世のほかの思い出に いまひとたびの あふこともがな  和泉式部

大江山 いくのの道の遠ければ まだふみも見ず あまの橋立      小式部内侍

めぐり逢いて 見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな    紫式部

夜をこめて 鳥のそらねははかるとも 世に逢坂の関は許さじ       清少納言

いにしえの 奈良の都の八重桜 けふ九重ににおいぬるかな        伊勢大輔

藤原保昌

歌人藤原致忠の子で摂津平井荘(宝塚市平井)に生まれました。官位は従四位下左馬頭。人柄は沈着・剛毅で武芸に練達し源頼信と並び称され源頼光と大江山酒呑童子退治にも加わり、文武を兼ね備え和歌にも堪能でした。逸話に冬の夜、笛を吹きつつ歩いていたところ、巨盗「袴垂」が尾行し襲わんとしたが、これを叱り家まで伴い衣服を与えて去らせたという豪胆でありながら情けある人柄が偲ばれます。52歳で和泉式部と結婚し摂津守として池田に在住し、79歳で亡くなりました。池田市の古江に住んでいた頃の秋の夜、保昌は明日の朝早く鹿狩りに行こうと弓矢を磨いて準備をしていたところ、裏山で鹿の悲しい鳴き声がしきりに聞こえてきました。これを聞いた式部は

「ことわりや いかでか鹿の鳴かざらむ 今宵限りの命と思えば」

と口ずさみました。これを聞いた保昌は胸をしめつけられる思いがして鹿狩りに出るのを思い止まりました。それからこの村の人々は狩りに行くとき古江の式部の墓の前を通ると不思議と獲物が取れなくなったと伝えられています。
 
 
 

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