2014年5月19日月曜日

池田と伊賀甲賀忍者


                       伊賀・甲賀忍者
甲ケ谷
地名には歴史が隠されている。「がんがら火」の発祥地「城山町」は昔「甲ケ谷」と呼ばれた集落でした。「明治22年(1889)市制町村制が施行されて池田町・細河村・秦野村・北豊島村が誕生し、甲ケ谷は池田町に含まれ、昭和10年(1935)一町三村が合併し「大池田町」に包含されました。そして昭和14年(1939)大阪府で6番目の池田市制が施行され、その時甲ケ谷町は米山ノ口町と北山ノ口町と合併「城山町」となり「甲ケ谷」の地名が無くなりました。
さて、「甲ケ谷」という地名はどうしてできたのでしょうか?元は「甲賀谷」と書かれていました。そうです、忍者の里「甲賀」から来た有力な人が住んでいたのではないでしょうか。室町時代、国人「池田氏」は佐伯山(皐月山)に城郭を築き北摂の要衝として権勢を振いました。その城域内にあった甲ケ谷は寄せ手を防ぐために鉤の手に曲げられた迷路が続く内にありました。今もその趣が町並みに残されています。
滋賀県(近江国)南端の「甲賀」、三重県(伊勢国)の「伊賀」、和歌山県(紀州国)の「雑賀」は数多くの小豪族(甲賀では53家)が発生し支配を好まず、それぞれ、一族が共和制に似た談合組織を形成していましたので外敵から守る自衛手段を必要としました。山脈の連なる地形から修験道の山伏との接触が古くから頻繁にありました。彼等は山伏が持つ知識・技能・経験を学ぶと共に更に創意工夫を重ねて忍びの術を完成させ、いわゆる方術家の群れ「忍者」と呼ばれる自活の郷士(ごうし)となり屋敷を砦化して敵の侵入に備えました。しかし地勢上農地が少なく食い扶持に窮し技術や技能を生かして各地の領主に雇われて出稼ぎする者も多かったと考えられます。池田氏は管領細川晴元の臣、阿波の三好長慶を介して甲賀者を早くから受入れて城下に住まわせ部落を形成、地名を「甲賀谷」と呼んだ。そして甲賀者の技術を利用して防備を強化、その首領に屋敷を与え重役にまで引き上げて重用したのではないかと思われます。
戦国時代となって、織田信長は天正9年(1581)従わぬ「伊賀」を徹底的に攻め婦女子に至るまで皆殺してすべてを焼き払いました。(天正伊賀の乱)豊臣秀吉の時代には雑賀衆も鉄砲による抵抗もかなわず支配されてしまった。甲賀衆の多くは信長に属したのでその後伊賀衆とは対照的にめぐまれました。甲賀大原出自「滝川一益」や「山岡景友」(道阿弥・八郎左衛門・備前守)などが出世しました。池田の甲賀衆は帰る郷里を失い池田に定住しますが、やがて池田氏も信長に攻略され甲賀衆と共に没落の悲運となりました。現在は山岡家が有るが山岡景文との関係不明。他に甲賀と名乗る子孫も見当たらないが、技術者・職人の職業を持つ人々が多いのは甲賀の血を受け継いでいるのではないかと考えさせます。
一方忍者が学んだ山伏たちは江戸時代に家康に統制されて真言宗醍醐派(当山派)と浄土宗本山派のニ派に所属することとなりました。城山町は当山派、建石町は本山派に属し昔から両派は対立し諍いが絶えませんでした。正保元年京都の愛宕火が池田に飛来したと言う事件は4人の造り酒屋が起こしたとされていますが、実はこの山伏と甲賀衆とが造り酒屋の黒子として流言を放つなど活躍したと考えています。現在五月山秀望台にある池田愛宕神社の一の鳥居は元禄4年甲賀谷村が奉納したものです。甲賀衆は池田にこの様な足跡を残しているのです。地名は昔を語る縁(よすが)を残します。簡単に変更したり、無くすことがないように願っています。              

尼崎市に「長遠寺」(ちょうおんじ)を再建した方の墓があります。
「甲賀谷又左衛門尉正長」と言う人で夫人と共に祀られています。荒木 村重とも関係があって池田氏の重臣の可能性が大きいです。
五月山 「忍者の砦」 H26年児童公園に設置され子供たちの人気ポイントです。
城山町 昭和19年合併で町名変更されましたが以前は「甲賀谷町」(甲ケ谷)と呼ばれていました。
鉤の手 池田城への侵入を防ぐために「くの字」(鉤の手)の狭い道になっていました。現在も当時
      のままに残っています。
池田の甲賀屋敷 
     池田城主に甲賀衆(忍者)が雇われていて、その中の一人「甲賀谷又左衛門尉正長」なる
     者が家老に取立てられて、屋敷を賜りました。これが甲賀谷町の由来となりました。
     ほかに弘誓寺の向かい側に家老の大西与一右衛門の屋敷があって「大西町」と呼ばれて
     いましたが「綾羽町」と町名が変更になりました。
池田城 
     中世の平城(ひらじろ)で近世の城のように石垣や水堀はなく、土塁と空堀でした。天然の
     要害を利用して北は「杉ケ谷川」西は崖、南は街道を取込み「法園寺」を砦とし、東は堀を
     造り砦を構えました。東と南の守りが弱くここから寄せ手に攻められ、また五月山から城の
     内部が全貌されたのが最大の弱点でした。
 修験者(行者・山伏・山人)
     中国道教の陰陽五行説や神仙思想の流れを汲み山岳宗教として進歩してきました。全国
     の霊山で修業が行われてきましたが、修験道の開祖とされるのは葛城山(960mツツジ
     の名所)の「役の小角(えんのおずぬ)」と言う行者で紀伊山脈すべてを踏破し箕面・
     皐月山にも修行の跡が残されています。箕面龍安寺は有名です。山伏は各地に跋扈して
     いましたが、江戸中期徳川家康が二派に統合させて浄土宗聖護院派(本山派)真言宗醍
     醐寺派(当山派)となりましたが以後両派の権益争いは絶えませんでした。 
 建石町(立石町)
     京都愛宕神宮寺「白雲寺」に属す山伏が愛宕講を組織活動。
 甲賀谷町
     五月山にあった「上仙寺愛宕社」は弥生時代からの流れとして京都愛宕社に属さず独自
   の活動を続け箕面勝尾寺・高法寺の支配を受け醍醐寺当山派に属して活動をしていました。
山 伏
   祈祷師として秘儀で呪法・呪術・加持祈祷を行い病気・災厄の退散や護符の配布を行い、御
   師(おし)として行場の先達(せんだつ)として案内役も務めていました。
   山伏は修行によって体力を鍛え、五感を磨き、特殊な技能魔術を感得したので忍法の成立に
   取入れられて忍者となる者もありました。忍者が「印を結ぶ」「九字を切る」(臨兵闘者皆陳列
   在前)のもその影響をうけたものです。
 忍 者
   忍び・乱波・隠密・お庭番その他多くの呼び名があります。首領―上忍―下忍の階級と
   なります。修験道を学び独自の研究によって特技を体得、五感を磨き忍法を創作した。
   基礎的な忍法の他に各個人の忍者は独特の技能を持ち武器とした。
  
忍者の里 滋賀県南部 甲賀(信楽)御斉峠(おとぎとうげ)を境にする。三重県西部 伊賀(上野)
       芭蕉の出生地
   平安末期壇ノ浦に敗れた平氏や木曽義仲や義経の残党・落ち武者は各地に隠れた。伊賀
   甲賀は「隠し国」と言われ多くの落人が名を変え隠棲忍びになる者も多かった(伊賀平左衛門
   家長・下柘植次郎左衛門) 
自治合議制 
  共に藩に所属せず、合議制で自治し外敵の侵入にたいしては協力して国を守備した。
 甲賀・伊賀
ともに山地に在り、耕地が少なく食糧に欠いたため、戦があると次男坊以下は足軽として雇われた。戦場では諜報の技術、草や池に潜んだり、放火をしたり敵地に潜入し敵情を探るなどテロリストとして活躍した。また権力者・敵将の才質・性格・顔つきなども熟知していた。合戦も農閑期に行われることが多く「出稼ぎ」として稼いだ。食禄で抱えられることなく、報酬で敵味方関係なく雇われ誉を持たないのが忍者であった。また忍者侍として各藩に長期仕えて(仕官はしない)特技を発揮し、中には領地を与えられて仕官して定住する者もあった。秘術を守り、技能を高めるために親族婚姻が多く奇形の体躯を持つもの、又稀な美男美女も生まれた。絆が強く忍者仲間を裏切ったものは親者であっても制裁として殺された。古くは壬申の乱(672)で大海人皇子が伊賀忍者を使ったとされる。
忍者屋敷
屋敷には深い堀を廻らせ内側に巨大な杉木立を植えて屋敷を隠し、外見ではただの平屋に見えるが実は3階になっていて、階段は押入 の中にあり、随所に鳴子がしかけられて、いっきに3階から1階に滑り落ちる引き綱が通され、木の格子に見えるのが鉄格子だったり唐紙と見えるものが銃弾も貫通しない3㎝もの板戸である。土蔵の壁はさらに10㎝の土砂を詰めた板で包まれ、天井には鉄の桟がはめ込まれ、窓は網戸・金戸・板戸の3重になり、2つの扉は両方が一度に開閉するようになっている。つまり一方の扉を開こうとすると、同時に他方の扉も開けなければ侵入脱出も出来ない。(甲賀甲南町)
甲賀53家(二十七士)
室町期共和制に似た談合組織を形成忍者衆の団体戦を得手とした。信長・家康に巧みに取入り各藩に仕え生きのびた。時勢の中で立ち回りが上手い多羅尾氏な徳川幕府の幕臣に出世するものも出た。
滝川一益―織田信長の家老として仕え伊勢長島城主のち豊臣秀吉に仕える。
山岡道阿弥―織田・豊臣秀吉に大名として、家康に五千石旗本となる
紫香楽宮―聖武天皇(701756)が造営
 伊賀260家
 
服部家(服部半蔵)は家康に仕え伊賀・甲賀の忍者を支配した。
信長に従わず、天正伊賀の乱(天正9年1581)と呼ばれる殲滅戦で百姓女子供まで徹底的に殺戮された。伊賀衆は土地を奪われ家もなく家名も消え肉親を失い国から散り諸方に流浪した。
信長は翌天正10年6月2日本能寺で明智光秀の反逆により自刃。徳川家康は伊賀の忍者に助けられ光秀の追捕を逃れ駿府に無事帰還伊賀に恩賞を与え、以後多くの伊賀衆を雇い入れ隠密諜報作戦に利用した。伊賀忍者は個人戦が得意で神出鬼没の働きをした。
家康と伊賀忍者
信長によって壊滅させられた伊賀はその後家康によって保護雇用されお庭番として活躍しました。明智光秀の謀反によって本能寺の変で信長は自刃。その時家康は信長に招かれて二条城に宿泊して堺にいました。急変で光秀の追っての迫る中家康は近習のみを従えて逃走。伊賀の忍者に助けられ伊賀越えで伊勢から駿河までかろうじて逃げ延びることができました。後日この恩に報いるため服部半蔵をはじめ伊賀衆に恩賞をあたえました。2代将軍秀忠は3代将軍を長男竹千代、次男国千代にするか決め兼ねているとき竹千代の乳母「お福」(春日局)の働きで家康が竹千代(家光)に決めるよう命じた。秀忠の御台所江与(お市の娘)は国千代を可愛がり将軍にしようと働きかけ対立し、一説では服部半蔵が伊賀甲賀の代表忍者10名を戦わせて伊賀が勝てば竹千代、甲賀が勝てば国千代と判定する提案をしたという逸話もある。
がんがら火と家康
がんがら火の始まりは正保元年(1644)零細酒造家「丸屋」「中村屋」「板屋」
「多田屋」の4人が五月山に京都愛宕火が飛来したと噂を流し火を掲げたと穴織宮拾要
記(伊居太神社)に記録されていた。しかしこの事件の起きた要因は当時の大酒造家の
横暴に苦しめられた零細酒造家のレジスタンスと本山派当山派の山伏の覇権争いに甲賀
衆が加担して密議の上実行されたと考えられる。現在にも通じる大企業と零細中小企業
との対立を見る地域活性化の大イベントとも言える。 
池田酒造業と家康
秀吉が死んだ後、徳川家康は関が原の合戦に勝利し、いよいよ大阪城を攻め落とすべく 慶長19年(1614)冬の陣に出陣します。奈良から大阪への古道、生駒の「暗峠」(くらがりとうげ)で休憩を取っていた時、池田村庄屋菊屋助兵衛・年寄牧屋又兵衛・淡路屋新兵衛が池田酒を荷駄につけて軍資金と共に陣中見舞として家康に差出しました。家康は大いに喜び褒美(ほうび)として御朱印の禁制状を下付しました。この禁制状の特権は池田の酒造業は勿論町人・百姓・馬借など池田村全体が庇護され繁栄しました。
酒造家は勢いに乗じて「下り酒」として江戸へ池田酒を送り江戸呉服町の出棚(支店)では満願寺屋の菰印「小判印養命酒」は最上の酒として人気がありました。最盛期の元禄10年(1697)には63株・醸造38戸・石高1万1千石超でその内、満願寺屋は1135石を占めていました。加えて運上冥加金御免(税の免除)休業御免(醸造制限なし)の特権があり、満願寺屋は「万貫寺屋」と呼ばれる程の資産家となりました。満願寺屋は川辺郡満願寺村(宝塚市山本)から、また「山本屋」も山本荘司阪上家の子孫で共に池田で酒造家として成功しました。この頃すでに伊丹・鴻池・山本・小浜・加茂・今津・西宮・灘など一帯で酒造りがされるようになっていました。中でも川辺郡長尾村(伊丹市)鴻池は尼子氏の勇将山中鹿之助の直孫山中新右衛門幸元が酒造りを始め澄酒の醸造に成功しそれを基に、その後莫大な富をなしました。(幸元は隠退後池田大広寺の禅門に入り同寺に墓地があります。)
さて栄華を極めた満願寺屋もやがて影を落とし衰退しはじめ、安永3年(1774)御朱印状事件が起きます。事件は、資金に窮した満願寺屋は同業の大和屋に300両を借ります。しかし返済が出来ず大和屋大三郎は奉行所に出訴。満願寺屋は朱印状を当家に下付されたものと、大和屋ほか6名は池田酒造連名に下付されてものと主張。示談がならず3年間の係争の結果安永5年(1776)満願寺屋は敗訴。朱印状は幕府に召上げられてしまいました。この事件後大和屋・鍵屋・山城屋が躍進。大和屋金五郎は1740石満願寺屋は650石と業界は新興が逆転しました。しかし事件は満願寺屋だけでなく酒造界全般に影響し、朱印状の特権に甘んじ保守消極的で狭小頑浅な池田の酒造業は伊丹・灘の進展に暫時衰退傾向へと向かって行きます。

 

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