2014年7月29日火曜日

司馬遼太郎エッセー 池田摂津最古の都市として


司馬遼太郎エッセー 池田―摂津最古の都市として

大阪府という他府県に比べてごく狭隘(きょうあい)な自治地域は、大阪市以外に戦前から多くの小都市が群立していることで特徴があった。これと戦前の福岡県、京都府、東京府、の都市状況とくらべれば、大阪府の特異さがよくわかる。
  いま、一概に大阪市の衛星都市とよばれてしまっているそれらの町々に、大阪市などよりはるかに伝統の古い町がある。堺市がその点でよく知られているが、堺などよりもさらに古いのが、池田であろう。
  池田は、はじめ呉服里(くれはのさと)という古名で想像がつくように、奈良朝もしくはそれ以前に大陸からの渡来人がここに定住して紡織をはじめたことで知られる。次いで平安時代には、池田の後背地である能勢の多田院が豊穣な米作として大きく発展し、その経済力と人口は、多田源氏という政治勢力まで成立させた。それだけの人口のための生活物資を商う市が必要になったが、それが、都市としての池田の出発ではなかったかと思う。平安末期から鎌倉にかけて、すでに相当な大市(おおいち)がここに成立していたのではないかと思ったりする。
  室町期は、商品経済の勃興期である。池田がどのような殷賑(いんしん)ぶりを見せていたか依るべき資料はないが、戦国の天正のころには、歌人などが池田の大広寺に流寓(りゅうぐう)していたという形跡があるから、摂津においては池田の冨はやはり第一等ではなかったかと思ったりする、
  蓮如があらわれて、それまで砂礫の丘だった大阪の上町台に本願寺の門前町ができ、やがて信長がそれをほしがり、さらに豊臣秀吉が首都を築いて大都市が形成されたが、一方、丹波高原が摂津平野に落ちこんだところにある池田は、大阪から離れていることもあって、小都市としての実力は大阪に圧倒されることなく継続した。
  戦国のころから池田は木炭(池田炭といわれた)の集散地となり、やがて、畿内における醸造業の中心にもなった。江戸期を通じての池田の商業的富裕というのは、相当なものであったらしい。この冨を背景に、町人文化が形成された。
  私は蕪村や呉春の履歴をしらべていたとき、かれらの経済的な保護者の何人かが池田にいて、暮らしが苦しくなると池田は行ってはしばしば長逗留していることを知った。池田にはすでに町人ブルジョワジーによる文化的なサロンができていて、その水準が決して低くはなかったことを思わせる。いまも、池田の町並みを歩いていると、家の作りに雅(みや)びがあり、建物のにおいなどにどこか垢ぬけたものを感じさせられる。
 食べ物等も、大阪市内にもないのではないかと思われるようなうまい鰻料理の店やそば屋、かき料理の小さな専門店などがあって、さすがに摂津国最古の都会だという奥ゆきの深さを覚えさせるのである。
 池田が、単に大阪のベッドタウンではないということは、写真にとりあげられた豊かな建築造形を見ても察することができるし、今時、この町並みを核に池田の都市空間が造られてゆくことがいかに大切かということもわかるであろう。
                           昭和503月 (1975

 

0 件のコメント:

コメントを投稿