2014年12月12日金曜日

新しい覇者「池田氏」


「池田氏」について

古文書に親しむ会の毎月の例会では昭和30年(1955)池田市制15周年記念に発刊された「池田市史」の流れに沿って、その中のエポックメーキングを選んでお話をさせて頂いています。現在は中世(12~16世紀約400年間)鎌倉・南北朝・室町時代について学んでいます。前回は南北朝の楠木正成を取り上げて池田との関わりを中心にお話をさせて頂き、その後西山雅司さんのお世話で湊川神社を実地研修出来て有意義な体験をすることができました。今回はその頃から台頭し始めた池田の新しい覇者池田氏について考えて見たいと思います。
奈良平安時代律令制によって治められていた政治体制は鎌倉幕府の設立によって公家貴族の権威が失墜し武家の権力に移り律令制は綻びつつありました。池田においてもすでに平安末期には坂上田村麻呂6世土師太郎正任が私領地の開発領主となっていました。鎌倉時代に入って律令制の為奈県豊島郡秦上秦下2郷の荘園は地頭によって押領されはじめ荘園の管理は公家と地頭の二重支配の状況となりました。そして、正任の7世倉七郎正季は産土神「呉庭総社天王」の神主となり神威を秦郷に拡大「呉庭荘」と呼ばれる地域が成立し、庄屋の祖となりました。この在地勢力者を池田氏の祖とする池田氏の系図が幾つかあります。系図以前の池田氏のはじめは第12代景行天皇の後裔某が和泉の国旧池田村(現和泉市池田下町)に居住し、朝廷から地方の県首(あがたぬし)として池田首(おびと)の姓を賜りました。その末裔が美濃国の荘官として赴任し、その土地を美濃池田荘(現岐阜県池田町)と呼び、その領主となりました。
領主は清和源氏の縁から美濃池田と摂津池田の地頭職を兼ねていました。その後貞観(859876)の頃の領主は池田維将でその孫維実は摂津池田に移り住み池田姓を名乗り系図の筆頭となっています。維実5代目奉政(ともまさ秦政?)は源頼光の5代に当り養子として迎えられ美濃池田・摂津池田の地頭を兼ね京都滝口にあって武者所にも勤め、源平の争乱では源頼政に加担して戦死している。子孫景正は藤原姓を名乗り神田常福寺を修復し十三重石塔や尊鉢釈迦院に宝筐印塔を建立し現在に足跡を残している。そして南北朝の頃その子孫池田教依は現城山町に城郭を設け居館としました。能勢地黄の領主内藤満幸の娘は楠木正行に嫁いだが北朝に加担したため正行の子を孕んだまま帰されました。教依は不憫に思いその遺児を引き取り育て総領池田教正として後を継がせました。その後室町時代にいたって池田充正は幕府管領細川勝元の有力な被官として一国人でありながら守護大名に匹敵する程の経済基盤を確立し池田城の改築・大広寺の再建・望海亭の建築などを一代で成し遂げました。応仁の乱でも勝元の配下で活躍し西軍大内氏に池田城を落とされましたが奪還し更に領地を拡大しました。しかし戦乱は続き下剋上の横行する戦国時代へと移行して行きます。新興勢力の勃興と幕府の権力の衰えるなか、管領細川氏内部、澄之・高国・澄元らの権力闘争に池田氏代々の城主は巻き込まれて落城や自刃、逃走、奪回を繰り返しながらも着実に地位を維持して来ました。
やがて、池田長正の代、細川氏の被官三好長慶が勢力を持つようになりその旗下となり各地を転戦、自領を拡大勢力を築きました。次代池田勝正は三好長慶死後三好三人衆に加担し松永久秀を攻めていたが、尾張織田信長が摂津に侵攻して来ました。他の国人や大名は信長に相次いで降るなか、池田勝正は勇敢にも池田城に籠り敢然と抵抗しましたが信長の圧倒的な軍事力の前に降伏せざるをえませんでした。
信長は勝正の勇猛を讃え伊丹氏と和田氏と共に摂津三守護として優遇させました。
その後勝正は信長の配下で各地に転戦従軍させられました。勝正の留守中荒木村重中川清秀らが勝正の弟池田知正と謀りクーデターを起こし勝正は追放されてしまいました。荒木村重は池田家中を掌握し信長に加担し摂津の実力者となり、信長より摂津守護職として摂津守の官位を受けるまでに頭角をあらわした。荒木村重は勝正を高野山に追放、伊丹城に入り知正は事実上荒木村重の与力となり果ててしまいました。以後荒木村重は信長に謀反を起こし伊丹有岡城は落城するわけですが、知正はその後豊臣秀吉に仕え徳川家康にも仕えましたが知正の後を継いだ光重が改易となり池田氏は遂に没落の運命となってしまいました。勝正は追放後細川藤孝に仕えましたが終焉は不明とされています。




池田氏は戦国の荒波に翻弄されて守護大名にはなりきれず没落しましたが、その繁栄時は牡丹花肖柏をはじめ多くの文人を招き連歌・謡曲・蹴鞠など高度な文化を育てその後江戸時代に至るまで貴人墨客の往来する文化の素地を創りました。


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