2015年3月16日月曜日

牡丹花肖柏


牡丹花肖柏14431527)-室町後期の連歌師・歌人

池田の中世室町時代に欠かすことの出来ない人物が牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)です。しかし、その割に知られていなくて日本史の教科書にも出てこない存在が残念です。五月山山麓池田氏の菩提寺「大広寺」の山門をくぐって本堂前右手に「牡丹花肖柏の碑」があります。この碑文は牡丹花肖柏を敬慕した漢学者「田中桐江」(たなかとうこう)が73歳のとき作文しました。その後文化元年(1804)荒木梅閭(あらきばいろ)がこれを書き石に刻み建立されたものです。牡丹花肖柏は京都の人で、嘉吉(かきつ)3年(1443)村上天皇の皇子具平親王(ともひらしんのう)の遠祖、準大臣「中院通淳」(なかのいんみちあつ)の次男として生まれ、幼少より臨済宗五山の僧となり三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の講義を受け、和歌を飛鳥井雅親(あすかいまさちか)⇒宗雅(そうが)に、連歌を飯尾宗祇(いいおそうぎ)に学びました。古今・漢籍にも通じる連歌師として朝廷の連歌会にも侍り、後柏原天皇の杯を受ける程の宗匠として名声がありました。牡丹花肖柏が池田に来たのは池田城主第6代池田貞正の頃で池田氏菩提寺大広寺第6世「雪岫和尚」(せっしゅうおしょう)に誘われたこともあるが、池田の芳醸な酒・山紫水明の風景に魅せられた事、応仁の乱後の都の騒乱を避ける思いもあったのでしょう。晩年の651507年から771519年までの12年間を池田で過ごしました。その間大広寺境内の草庵に隠棲し「夢庵」(むあん)「弄花軒」(ろうかけん)などと称して池田氏の庇護のもとに風雅三昧の生活を楽しみつつ池田氏一門(正盛・正棟・正種・正能)や近隣の国人にまでも連歌を流行らせました。そして以後の池田の文化興隆に大きな影響を与えました。草庵を出るときは牛に跨り角に金箔を貼り「高風隠士」(気高い風采の隠者)の面影で悠々と池田村で遊んだと伝えられています。このさまは阪上稲丸の「俳諧呉服絹」の呉服八景の一つに「牡丹花の庵月」として描かれています。牡丹花肖柏は永正16年(1519)池田を後にして大坂堺に居を移し大永7年(152785歳の高齢で没しました。牡丹花肖柏・宗祇らと共に同時代に活躍した連歌師に山崎宗鑑がいます。

墓地は「龍興山 南宗寺」にあります。(堺市南旅籠町東・阪堺線「御陵前」下車徒歩10分)

「春咲かぬ 花やこころの 深見草」              肖柏

「忘れじな 心の松のおく深き 軒端に匂う 花の春風      肖柏

連歌について

連歌は鎌倉時代に興り、南北朝から室町時代に大成しました。そして室町後期~近世が最盛期となりました。天神信仰と共に連歌会所が開かれ、住吉天神社・与喜天満宮(奈良櫻井長谷寺鎮守)・北野天満宮・大坂天満宮・男山八幡宮・水無瀬神宮などが有名でした。連歌ははじめ短連歌⇒二人で詠むに始まり、長連歌⇒多人数で上の句5・7・5長句 下の句7・7短句 を即興で続けて行きます。式目(法則ルール)に従い宗匠・執筆がリードして100句(韻)を一纏めとして扱い、百韻と呼びました。

百韻は和紙4枚を横折りして表・裏に記入して行きます。

   1枚目(初折り)8句・14句⇒開催日・場所・賦物(式目)記入

   2枚目     14句・14

   3枚目     14句・14

   4枚目(名残り折り)14句・8句⇒連衆名前・出句数 合計100

1句目 賦何人(ふすなにびと発句)主賓、2句目(脇句)開催者(亭主) 

連衆と続きます。

一巡後は句が出来た者から順に出勝ち順に記録されます。

連歌はその後は廃れましたが、西山宗因・井原西鶴・松尾芭蕉・正岡子規へと経て俳諧・俳句に影響し発展して行きました。




 

 

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