2016年1月19日火曜日

植木のまち池田


「植木のまち池田」・・・・・細河のお話

毎年5月下旬、恒例の「さつき展」が市役所ロビーで開催されます。いけだ市花「サツキツツジ」を知ってもらい、細河地区の地場産業・栽培技術をPRする目的です。
その昔、池田は「造り酒屋」と「池田炭」のまちとして有名でした。それ以上に「植木のまち」として「日本の四大植木生産地」と言われて全国的に知られて来ました。埼玉県川口市の「安行」(あんぎょう)・愛知県の「稲沢市」・福岡県の「久留米市」そして大阪池田の「細河」です。しかし現在は植木もその地位が維持できているかあやしいところです。最近は府立園芸高校の移転先として政治的な話題にもなっています。今日はその「ほそかわ」についての歴史を聞いて頂こうと思います。
細河は地形が谷の入口に当たる「谷口集落」です。古代から為奈県(猪名川の東西3里)の「細郷谷」(ほそごうだに)と呼ばれて来ました。それが今の「細河」(ほそかわ)となったのはなぜでしょう?
明治22年市町村制が実施され部落が一つになって「細郷村」(ほそごうむら)となりました。市町村制の申請したとき、実はお上から「細郷村」(ほそごうむら)の「郷」と「村」は意味が重なるとクレームが入って、「郷」を「河」に変えて「細河村」(ほそごうむら)として再申請し登記されました。ところが役人が読み方を間違えて「ほそごうむら」と読むところを「ほそかわむら」と読んでしまって、以後、結局「ほそかわ」となって現在まで「細河」となってしまっています。「中川原」も「川」・細川神社も「川」で下河原が「河」でこれが正しいのですが、うっかり書き違えが良くあります。地名には由来いきさつがあるので、大切に慎重に扱う必要があると思います。                   

河⇒大きな流れで、中国北部は「黄河」などを大河と呼び、南部は「江」(こう)

      と呼んで長江(揚子江)などです。

川⇒地の間をくねくねと流れる水流で小さな流れを言います。

漢字の意味からは細郷谷筋を流れる久安寺川・余野川で「細川」が正しいのです。「細河」は全く意味がありません。
細河植木の発達の由来には、植木に固有な絶好の自然環境があります。まずは「気候」です。三方を山に囲まれて温和で夏は盆地性気候の高温・頻雨雷雨です。冬はめったに雪が積もることがありません。「雷雨作りて百果草木甲析す」大切なのは「地質」です。台地は「洪積層」(氷河期の堆積物で花崗岩が風化して自然破砕して出来た花崗岩性粗粒砂礫層)いわゆる砂地で排水乾燥が非常に良い。それに加えて不思議な湧き水が東山から湧出しているのです。昔は「塩川」とか「からき水」とか呼ばれた硫黄のにおい(硫化水素H2S弱酸性)のする鉱泉です。この成分は農業用殺菌剤として化学工場で生産されている「ボルドー液」で硫酸銅と石灰乳を混合液です。(フランス・ボルドーで初めて使用された農薬でこの名称がある。・ワインの集散地で有名)この成分と全く同じ鉱泉が細河一帯の土地に浸透しているのです。この土は「赤土」とも呼ばれてバクテリアの発生が少なく、根つきが非常によくて諺に「杖でも挿せば芽が出る」とさえ言われています。

「花崗岩」(深成・火成岩でマグマが冷え固まった岩)
私は確認のために東山の谷向さんの案内で現地に向かいました。特養ホーム「ポプラ」の北角から山麓へ入ると一帯の竹やぶのその手前に溝があり豊富な清流が流れています。小川に沿う小道が古道でその山麓に戦時中日本海軍の魚雷が隠されていたと伝えられていました。(実際はその他の兵器・燃料などもあったらしい)その場所から不思議な湧き水が出ていたと聞いたのですが壕の跡らしき場所は見つけましたが、ここからは湧き水はありませんでした。その上には村の共同墓地があるそうですが、このあたり一帯に7ケ所の湧出があるのでその中にあるものと推察されます。
山腹にある曹洞宗「東禅寺」境内からはなんとも旨い名水が湧いていて、これは広言はしたくなく、そっと甘露を味わいたいものです。話ははずれますが東山には「磨き砂」がとれて、戦時中は石鹸の替わりとして重宝されたことも聞きました。そして海軍の壕は戦後進駐軍がすべて掘り戻して兵器は処分されたそうです。
さて細河の植木の起源は450年ほど前の戦国時代(足利時代)天文年間(15321555)にはすでに山林用苗木と桑畑の栽培が始まって、その後庭木・植木栽培に移行して、江戸の初期「接木の名人六蔵」(橘兵衛の名賜る)が現れ庭園樹の栽培が更に盛んとなりました。そして、300年程まえ元禄の頃には最盛期を迎えて多種多様の苗木・盆栽・花卉(かき)が生産されました。特に木部(きのべ)のボタンは有名で延享(えんきょう174448)の頃公家・大名が愛好し、文化文政(18001830)には全国的に愛好者の需要に応じました。白牡丹172種・赤牡丹161種あったと言われ、牡丹屋下村小兵衛が著名な生産者でした。牡丹屋は「木部の牡丹」として年間1000本程も出荷しました。現在吉田にある禅寺「陽松庵」は元木部北条にありましたが、下村小兵衛が「天柱禅師」に深く帰依し、吉田の現在地を寄進し私財で建立した寺院です。(吉田にありますが中川原の飛地となっているのはそのためです。)(諸寺院は境内に植込み極楽浄土の具現として流行しました)今も下村家は続いています。池田の牡丹と言えば、室町時代の有名な連歌師「牡丹花肖柏」という人物を是非覚えてほしいものです。名前からも解るように池田の牡丹と池田の酒をこよなく愛し、大広寺の塔頭「泉福院」に夢庵・弄花軒と号して12年間過ごし連歌をはじめ多彩な文化を後世にまで池田にのこしました。大広寺境内には牡丹花肖柏(14431527 85歳)を偲んで田中桐江(たなかとうこう)作文の遺愛碑が、又牡丹園に5月に牡丹の大輪が花を咲かせています。 「春咲かぬ 花の心や 深見草」肖柏(深見草は牡丹の別称です)細河地区は米麦の耕作には適せず、鹿・猪の食害もあって、米の年貢が納められませんでしたが天領の池田細郷は池田酒と同様に幕府から特別区として保護されて発展して来ました。しかし、その後徳川幕府の奢侈禁止令で生産が減少し疲弊しましたが、明治・大正で復活。戦争や戦後の変遷を経て盛衰を繰り返しながら、創意工夫の積み重ねによって現在もその地位を守っています。このような細河地域の恵まれた気候・地質の風土を生かして、各地域では、日照時間・風向き・高度などの違いを巧みに利用して創意工夫されて技術を駆使し、需要に合わせた多種多様の植木が生産されています。

(別紙「各地区の生産樹種」を参照「花卉」(かき)観賞用のために栽培する植物「牡丹」は中国の原産で中国では「花王」と称されて観賞用と薬用(根皮婦人病)として古くから栽培されていた。日本では大和国(奈良県高市郡)では薬種用牡丹が広範囲に栽培されている。長谷寺の牡丹も昔は薬用の牡丹だったが、現在のものは観賞用で山本から移植された牡丹です。観賞用牡丹は秀吉・家康に保護され、接木の技術を持つ山本が全国的になり優位を保っている。

「閻王(閻魔大王)の口や 牡丹を吐かんとす」
「地車(だんじり)のとどろと響く 牡丹かな」与謝蕪村

細河の歴史を知るためには、さらに遡って坂上氏「山本郷」の説明からしなければなりません。「山本の園芸は1000年」と言われ、山本郷は清和源氏の祖「源満仲」(912997)が多田院を設け「多田源氏」としての基礎を固めた地域です。満仲の最も有力な御家人は「坂上党」で坂上田村麻呂7代目孫嫡「坂上頼次」(京都愛宕郡八坂郷出)が山本郷の開祖です。坂上氏を更に古代に遡りますと、「くれはあやは」を日本に連れ戻った、「阿智主使」(あちのおみ)で中国後漢の霊帝の後裔に当たり応神20年17県(あがた)の氏族を伴い技術集団として渡来。帰化人となり大和高市郡檜隈に領地を賜り、河内土師氏の祖となります。坂上氏の一族は機織などの技術の功績により猪名県(猪名川の東西3里)を賜わります。そして坂上頼次が山本郷の開祖となります。平安時代になって満仲が多田に勢力を持つようになり、多田院を中央政所とし西政所を「山本」に、東政所を池田「宇保」に、南政所を伊丹「大鹿」に定めました。4代目坂上頼継は多田源氏の御家人となり「後三年の役」に出陣功を挙げ帰郷し、牡丹の栽培に専心するようになったと言われます。これが山本園芸の起源とされる由縁です。室町時代となり、多田源氏を頼り池田に「池田教依」が入り勢力を広げます。やがて戦国時代へと時代は混乱し、当時の山本庄司だった坂上頼康は織田信長配下の塩川国満に制圧され、坂上氏の権力は衰退して行きます。頼康は多田御家人としての武士を捨てて郷士となり第34代山本庄司として植木の生産・造園に励み山本郷の植木園芸の基盤を固めます。頼康の偉業は接木の術の発明です。台木に花木・果樹を接木すると花木は強健で樹齢が長く、珍花・奇花を生み、果実は結実が早く美味大粒となる優れた技術です。豊臣秀吉は頼康の接木の技術を聞いて大阪城に招き実際にやらせてその術に感嘆し頼康に「接木太夫」の称号を与えた。頼康は牡丹も優れたものを増産し有名となり、坂上氏の家紋を牡丹と獅子を絡ませた紋としました。唐獅子牡丹の起源です。山本駅前には立派な顕彰碑が建てられて、いまも山本園芸の誇りと研鑽の励みとなっています。「楊林寺」には坂上頼康接木太夫一族の墓があります。さて、植木生産地の拡がりはこれまで述べてきた歴史と気候・地質の風土から解るように伊丹台地の山本郷を中心に、池田細河地域を含めて六甲山・長尾連峰・池田山(五月山)・千里山丘陵に囲まれた大阪層台地。現在の宝塚・伊丹・池田・箕面・豊中・吹田一帯となっていたことが理解できます。昔はこの植木生産地を総称して山方13ケ村と呼びました。

□細郷谷      木部・中川原・東山・伏尾・吉田・古江

□伊丹台地     山本・丸橋・口谷・東野

□千里山丘陵南麓  柴原・上刀根・下刀根

細河地区の現況は流通・交通の発達による競争の激化、後継者難で厳しい経営となっていますが、次の世代を担う方々が懸命な努力をされています。その一つ東山町「細河植木塾会長」 吉野 聡さん(48)は黄色のサツキを作る試みに挑戦されています。中川原町には「細河園芸農業協同組合」があって定例市・盆栽市・戎市が催され専門業者はもとより、一般生活者にも広く販売されています。お天気の良い日に植木の生育を眺めながら旧道をゆっくりと歩くだけでも細河へ来た価値は充分にあります。

(池田の大酒造家「満願寺屋」は坂上九郎右衛門でこの人も坂上氏出身です)。




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