2016年1月15日金曜日


「めんも楼」と木綿屋茂兵衛

ハローワーク(職安)から東へ池田文庫まで急な坂道となっています。この坂を「めんも坂」と言います。「めんも」は木綿屋細原茂兵衛の「棉茂」を意味します。坂の途中に初代木綿屋細原茂兵衛が「めんも楼」と言う料理旅館を開業し、洋食も出す評判の店で坂の名前になる程に随分と繁昌しました。日本に西洋医学を伝授した長崎出島のオランダ商館医師フイリップ・フォン・シーボルトは有名ですが、その次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトもまた明治2年父の足跡を偲びつつ来日し、オーストリア日本公使館書記官となりました。在日中彼はめんも楼へ度々食事に訪れました。三代目茂兵衛の頃、娘の細原はなはめんも楼で接待役として働いていましたが、ハインリッヒの目に止まり国際結婚として世間を騒がせながら明治18年大阪府知事建野郷三の媒酌で、はな20歳のとき結婚をしました。しばらくは平穏な結婚生活が続きハインリッヒの間に一女をもうけましたが、不幸にも早世させてしまいます。11年の月日が流れ、はな31歳のときハインリッヒは帰国を命ぜられます。はなは両親と夫との愛のはざまで悩みますが両親の願いを受入れてハインリッヒと辛い生き別れの道を選びます。その後はなは両親に孝養を尽くしつつも侘しい厭世の日々を送りました。ハインリッヒは明治41年ウイーンで別れたまま病没。はなは別れて32年目昭和363歳のとき毒湛禅師に帰依し、夫ハインリッヒ追善のため大乗妙典を写経し、地中に埋め立派な七層「印筐宝塔」を大広寺墓地に建立し冥福を祈りました。はなは昭和1272歳で他界され、今も宝塔に寄り添うように墓地に眠られています。     平成2311月(2011

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