2016年1月27日水曜日

池田「がんがら火」と造り酒屋


池田がんがら火祭りと造り酒屋

がんがら火祭りは正しくは「愛宕火」と言います。愛宕火は火の神「火之迦具槌神(ひのかぐつちのかみ)とその本地仏「地蔵菩薩」を祀る行事です。「アタゴ」は「仇子」「愛磐」(女性器)の意味があります。記紀の神話には火之迦具槌神はイザナギ・イザナミの子で生まれる時、母イザナミのホトを焼き焼死させた仇の子とされています。平安時代に本地垂迹説が生まれ火之迦具槌神の本地仏は地蔵菩薩とされ、縁日824日(旧暦722日千日詣)に愛宕神社の祭りと地蔵盆が行われるようになりました。

京都愛宕神社の地蔵菩薩は延命地蔵でなく「将軍地蔵」と言って甲冑をつけて都の鬼門を守るとされています。京都清水寺の地蔵も将軍地蔵で毘沙門天とその化身観音菩薩の三体が本尊となっています。

京都愛宕神社は役小角(えんのおずぬ)と泰澄の創建とされ修験道と深い関わりがあります。陰陽道・道教を源とする山岳宗教「修験道」は山伏の加持祈祷・呪術によって庶民に広まって行きましたが、江戸時代になって幕府が天台宗聖護院派と真言宗醍醐寺三宝院派の二派に統制しました。これを本山派・当山派と呼びます。この両派はお互いに権益を争って紛争が絶えませんでした。争いは池田にも及び立石(建石町)の本山派、甲賀谷(城山町)の当山派の対立となっていました。一方造り酒屋は60軒以上もある中で萬願寺屋・大和屋・菊屋などの大手が江戸への下り酒を独占する状況で中小の造り酒屋は地元だけの消費を当てにする苦しい経営でした。このような情勢にあった零細造り酒屋、丸屋・中村や・板や・多田やの四人が当山派の山伏と企んで正保元年(1644)旧暦724日遂に「京都愛宕の火が池田に飛来した!」と流言する大事件を起こしたのが「がんがら火」の始まりとなったのです。その結果訴訟沙汰になったものの数年後には愛宕社を立派に建直し、近郊からも池田に人が集まり山伏も造り酒屋も大いに潤いました。

池田酒の隆盛は徳川家康が池田村に与えた「禁制状」が特権として160年間効力を発揮したことによります。家康は慶長19(1614)大阪冬の陣に出陣します。奈良との境界「暗峠」で休憩しているとき池田村の庄屋淡路屋新兵衛・年寄牧屋又兵衛・造り酒屋菊屋助兵衛らが池田酒を荷駄に家康の陣中見舞いとして差出しました。家康は大いに喜び褒美として朱印の禁制状を下付しました。これが以後池田村・池田酒造家のお墨付きの特権として大いに効力を発揮し、元禄年間には摂河泉三国一を誇る池田酒となりました。(6318000石1升瓶180万本)勿論技術的な努力もあった訳ですが、封建時代の幕府の権力は絶対的なものでした。

しかし安永2年(1773)萬願寺屋事件で禁制状がお上に没収され、以後伊丹・灘(西宮)の醸造業者に押され池田酒造業は衰退しました。



■暗峠(くらがりとうげ)生駒山頂上南へ2㎞、奈良から大阪への最短距離の古道。

■禁制状:池田村での軍兵の狼藉を禁止することを保証した朱印の書状。


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