2016年1月18日月曜日

相撲と池田


相撲と池田

池田は昔から相撲が盛んな土地柄でした。池田愛宕神社の石段下に浅い窪みがあって格好の自然の相撲場の形となっていて江戸後期頃から、ここに土俵を築き「愛宕山相撲」が度々興行され、近在からも見物人が多数訪れて賑わいました。(今はアジサイの花壇となっています)池田には力士となった人の立派な墓石が15基も残っています。その中でも浄瑠璃や芝居になった有名な関取に「猪名川政右衛門」がいます。西光寺(新町1-1)の境内に墓石があって傷みが激しく最近囲いが造られました。元の名前「次郎吉」は造り酒屋「多田や」の子どもで醸造銘柄の菰印「猪名川」の四股名をもらって猪名川次郎吉と名乗り15歳で大阪藤島部屋に弟子入り、宝暦6年(1756)17歳で初土俵を踏み、明和5(1768) 猪名川政右衛門と改名、翌年東関脇まで昇進し、引退後は部屋の親方となり力士の育成に尽力し62歳で没しました。多田やは現在も続く池田伝統の祭り「がんがら火」を始めた4人の造り酒屋の一人です。この猪名川政右衛門が「関取千両幟」として浄瑠璃に上演されたのは明和4(1767)大阪竹本座でした。その頃天満の千田川吉五郎との取組みの人気は最高でこの取組みの日は札止めになる大入り満員の盛況でした。この人気が両者の確執を生んで猪名川関にまつわる哀話が戯曲化されました。芝居の筋書きは、猪名川ひいきの客と千田川ひいきの客とが新地遊女「錦木」の身請けを争う事情となり身代金200両の工面に困っている猪名川関の所へ千田川関が来て、明日の取組みで負けてくれたら身請け話から手を引くと謎をかけて立ち去った。翌日土俵で勝負に迷っていた猪名川関にひいきから「金200両進呈!」の声が掛かりこれに力づけられて勝負に勝ちました。しかし、引き揚げると、その200両は女房の身売り金であった。駕籠に乗せられて家から立ち去る女房に猪名川は愕然として見送るしかなかった。こんな悲話でした。こんな話を聞いてお墓を訪ねて見るのも楽しいのではないでしょうか。近頃の歴史ブームで歴女・仏女が増えているなかで「お墓マニュラー」と呼ぶ女性が著名人の墓を訪ねて故人を偲んで心を通わせているそうですが、私もその一人なのです。H22.6.(2011)


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