2016年1月15日金曜日


木綿(きわた)の栽培とその謎

毎朝池田駅の近くのCAFÉに出かけて、ひと時コーヒを飲みながら新聞を読むのが日課となっている。この店のスタッフに「木綿」と言う名前の可愛い女性がいる。珍しい苗字なので住所を聞くと「神田」(こうだ)で曾祖父(ひいじいさん)以前の代から住んでいるそうである。神田には現在も「木綿」姓の方が10戸近くあって、また「めんも楼」の木綿屋茂兵衛の「細原」姓の方が10数戸もある。神田にまとまって木綿にまつわる方々がおられるのが何故か興味深いところである。木綿(綿の木)は1200年も前、平安時代に中国から伝来し、16世紀頃からアジア木綿が栽培されるようになった。江戸時代からは稲作と同じ「表作」(おもてさく)として5月初め(八十八夜)に播種され、秋に綿花と種子が収穫される。棉は布団や衣料に、種子は棉実油として食用・石鹸の製造などに利用されている。現在は殆ど輸入されているが、江戸時代は全国的に栽培されていて、池田でも小作人によって広く栽培されていました。同時に池田は在郷町として物資の集散の機能があり、川辺郡(川西・伊丹)からも実棉を集め」仲買人(中問屋)として大坂天満市場に流通させる業者、また繰り綿(綿花を繰って種子を取去ったもの)に仕立てる業者、糸繰り(棉から糸にする)加工職人など農業生産の一翼を担う存在となっていました。江戸に送られた「池田木綿」は「池田大本上糸口」と称されて品質最高の名代の繰り綿でした。しかし、仲買人の買い叩きや市場への直売などに奉行所の統制が厳しく、やがて大量の村々の集団訴訟にまで至り幕府の封建支配の崩壊現象の一つにまでなり混乱しました。今一つ木綿の生産に大きな変化をもたらしたことがありました。それは「大和側の付替え」と言う大事業が元禄17(1704)行われたことです。古来河内平野では幾筋もの川が網の目のように蛇行し、大雨が続くと洪水となり流域住民は苦難に悩まされて来ました。工事は柏原の船橋を起点に延長14.5㎞、川幅180mに及びますが、僅か8ケ月で完成されました。そして、干拓による多くの「新田」が生まれました。しかし、新田は砂地で水稲耕作には適さず、棉・麦・菜種などが栽培されました。なかでも木綿は大々的に生産されのちに「河内木綿」として有名になり、現在の岸和田「和泉木綿」の元となりました。池田はこの影響によって競争力を失い木綿生産は衰退することとなりました。話は変わりますが、例年伝統の行事として行われる「池田がんがら火」の元火として824日池田愛宕神社境内で「柴燈護摩供養」が行われますがこの時参集する愛宕社の信者は殆ど東大阪・河内の信者で、池田の信者はごく僅かです。ここに謎があるのではないでしょうか?私の全くの仮説ではありますが江戸時代後期池田の木綿小作人が大挙大和川の新田に移住したのではないでしょうか。そして824日の縁日に参集する故事となって、今も続いているのではないかと推測しています。「くれは・あやはとり伝説」は絹の文化ですが、池田では木綿の文化は根付かなかったようです。

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