2016年5月16日月曜日

江戸時代前期の池田
戦国時代、永禄11年(1568)遂に池田城は織田信長の標的となり落城。
三好衆のクーデタによって池田勝正は逃亡そして池田氏の滅亡しました。そして以後荒木村重の反逆、有岡城の落城といわゆる、天正の兵乱によって池田は完膚なきまで焼き尽くされましたが、豊臣秀吉の天下統一によって天領となり
ようやく街道も整備され村も復興されて池田に秀吉は有馬温泉湯治の道すがら何度もに立ち寄り久安寺で茶会を催したり、秀頼もまた池田で宴を催し猪名川での鮎の川狩りを楽しみ滞在しました。また、寺社奉行片桐且元に呉服神社・伊居太神社の社殿の修築させるなど池田に支援してくれました。秀吉の没後徳川家康は天下分け目の決戦と言われた関ケ原の合戦で西軍石田三成を打ち取りました。そして豊臣家へのとどめの緒戦大阪冬の陣に臨み軍を進めました。家康は奈良から大阪への最短距離の古道生駒の「暗峠」(くらがりとうげ)で休憩を取っていた時、池田村庄屋菊屋助兵衛・年寄牧屋又兵衛・淡路屋新兵衛が池田酒を荷駄につけて軍資金と共に陣中見舞として家康に差出しました。家康は大いに喜び褒美(ほうび)として御朱印の禁制状を下付しました。この禁制状の特権は池田の酒造業は勿論町人・百姓・馬借など池田村全体が庇護され繁栄しました。
酒造家は勢いに乗じて「下り酒」として江戸へ池田酒を送り江戸呉服町の出棚(支店)では満願寺屋の菰印「小判印養命酒」は最上の酒として人気がありました。最盛期の元禄10年(1697)には63株・醸造38戸・石高1万1千石超でその内、満願寺屋は1135石を占めていました。加えて運上冥加金御免(税の免除)休業御免(醸造制限なし)の特権があり、満願寺屋は「万貫寺屋」と呼ばれる程の資産家となりました。満願寺屋は川辺郡満願寺村(宝塚市山本)から、また「山本屋」も山本荘司阪上家の子孫で共に池田で酒造家として成功しました。この頃すでに伊丹・鴻池・山本・小浜・加茂・今津・西宮・灘など一帯で酒造りがされるようになっていました。中でも川辺郡長尾村(伊丹市)鴻池は尼子氏の勇将山中鹿之助の直孫山中新右衛門幸元が酒造りを始め澄酒の醸造に成功しそれを基に、その後莫大な富をなしました。(幸元は隠退後池田大広寺の禅門に入り同寺に墓地があります。)
さて栄華を極めた満願寺屋もやがて影を落とし衰退しはじめ、安永3年(1774)御朱印状事件が起きます。事件は、資金に窮した満願寺屋は同業の大和屋に300両を借ります。しかし返済が出来ず大和屋大三郎は奉行所に出訴。満願寺屋は朱印状を当家に下付されたものと、大和屋ほか6名は池田酒造連名に下付されてものと主張。示談がならず3年間の係争の結果安永5年(1776)満願寺屋は敗訴。朱印状は幕府に召上げられてしまいました。この事件後大和屋・鍵屋・山城屋が躍進。大和屋金五郎は1740石満願寺屋は650石と業界は新興が逆転しました。しかし事件は満願寺屋だけでなく酒造界全般に影響し、朱印状の特権に甘んじ保守消極的で狭小頑浅な池田の酒造業は伊丹・灘の進展に暫時衰退傾向へと向かって行きます。衰退の内因は馬借に頼る運搬費が原価を高め、地元郷土の消費が振るわず、他郷への株の分散持ち出しが原因となりました。外因として伊丹・灘の海運の有利・灘の宮水(硬水)の開発・水車による精米の機械化・醸造技術の革新・生産の効率化などが考えられます。魚崎の宮水の発見は池田の山邑氏と言われ、池田から醸造の技術を持ったものが多く伊丹・西宮・灘五郷へと移転しました。
【馬借⇒中世・近世に駄馬を使った運送業者。多くは馬持から馬を借りて営業した。】
しかし繁栄を極めた酒造家たちはその財力と才覚を発揮して大いに池田の文化の発展に寄与しました。文化に貢献した主な酒造家を例に上げると,大和屋山川正宣(やまかわまさのぶ)阪上(さかうえ)()(ろう)山川(やまかわ)星府(せいふ)(墓地「本養寺」) 鍵屋荒木(あらき)(らん)(こう)荒木李谿(あらきりけい)荒木梅閭(あらきばいろ)(墓地「西光寺」) 山本屋阪上(さかうえ)(とう)(まる)(墓地「西光寺」) 麹屋(甲字屋)稲束(いなずか)()(ちゅう)(墓地「西光寺」 山城屋葛野含(かどのがん)(しゅん)(さい)葛野宣(かどのぎ)(しゅん)(さい)(墓地「託明寺」) 菊屋井関(いせき)()(げん)(墓地「託明寺」)などの人があります。(それぞれの人の詳細は、拙著「池田歴史探訪」をご参考ください。)
天保年間(18301844)には老舗に混じって新興の酒造家が出現して来ます。大和屋・甲字屋・西田屋・丹波屋・酒屋・油屋・綿屋・山城屋・加茂屋・樽屋・小部屋・豊島屋・米谷屋などです。
そして大正時代になると、北村儀三郎・北村房吉・北村富松・北村吉右衛門・北村伊三郎・岸上又吉・吉田辨吉・西田庸之助の8家となりました。
池田酒が他郷に秀でて香味優れ強くて軽い辛口酒として愛飲され、高価格にも関わらず買われたのは能勢の米・猪名川の水と言われています。また久安寺川の上流平野・多田には炭酸泉が噴出し含有する有機物・無機物・水温などが微妙に醸造発酵素と関係していると考えられています。昔「井戸の辻」と呼ばれた栄本町は、この水が伏流水として湧き出る場所でこの辺りに酒造家が軒を並べて酒造りが隆盛をきわめました。
現在は「呉春」(呉春㈱)「緑一」(吉田酒造)の酒蔵だけとなりましたが、猪名川町の「花衣」能勢の「秋鹿」とともに地酒として全国的に有名人を含め愛飲家に喜ばれています。

井戸の辻⇒昔、有馬街道・巡礼道と能勢街道の交差する池田の中心地で「高札場」(こう
中世と近世の百姓の立場の違い
中世は士農工商の身分制度が厳格に決められ職業の自由はなかった。
幾つかの家族で形成する大家族制   名代―名子
近世江戸時代の百姓は自治で村を運営し、寄合で村掟を定め
武士は生産社会との直接関係を失った
百姓は独立し家屋敷・店(たな)も持ち御公儀百姓名乗り支配されなかった。
幕府()は基本的施策意図を持たず、村から出て来る要請を調整するだけ。
村が掟を成立させる。
家族は生産の単位(現代は消費の単位)
領主の関心は年貢の増加と治安の安定だけ。「良きにはからえ」
法制度(掟・触れ)は村方が考え、代官が承認する百姓社会
慶安御触書―「たばこのむな、これは食にもならず、結局以来わずらいになるものに候、そのうえひまもかかるし、金もいる。火の用心も悪い」
「百姓」は貧しさの代名詞や差別用語は誤り   村ハ分(葬儀・火事)
近代資本主義のエネルギーは百姓から育っている。
新田開発―大規模な開墾は大河川流域の干拓(新田村)
浄土真宗の講が団結を固め共同体をつくる。顕如上人(法然→親鸞)越前越後

検地―太閤検地が有名で応じないものは撫で切りにせよ!という強行
   農民の掌握と租税の基本台帳を作る目的  測量―地詰め
   検地を受けることで所有が認められた。(登記)
年貢―検地制(毎年の作柄により決める) 一人扶持(一日米五合)
   定免制(毎年の平均収穫を基準に一定率を決める)
   江戸時代は百姓と役人との話し合いで何れかに決められた。
直轄領(天領)
幕府(大老・老中)-奉行所(町・寺社・勘定)
村役人(村方三役)庄屋(名主・肝煎り)
          組頭(年寄・脇百姓)
          百姓代(長百姓)

大名(藩主・領主)-代官)

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