2016年9月26日月曜日

「日本のおもてなし」の伝統を守る京花街

「日本のおもてなし」の伝統を守る京花街
京都には上七軒・祇園甲・祇園東・宮川町・先斗町の5つの花街(かがい)がある。これらを遊郭や歓楽街と思われる節があるが、ではなくて日本の遊びの文化を代表する無形文化財とも言える歴史的文化的な存在で、独特のしきたり・習慣を守って一つの別世界の社会を形成している街なのである。
5花街の他に遊郭として歴史のある「島原」があるが、現在は大門と角屋・桔梗屋・輪違屋の3軒の揚屋が残されているが、角屋のみが観光名所として一般に公開され、屋内の見学や太夫の花魁道中など昔の遊郭の風情を見ることは出来るが実際の営業はされていない。(戦後は五条・七条新地などが出来ている。)
花街のお茶屋は寺社への巡礼や街道を旅する人をもてなす水茶屋が起源16世紀中頃にすでにあった。(室町時代末期とも?)その名残りは八坂神社南側の鳥居の傍にある柏屋・藤屋の二軒茶屋で、今は中村楼になっている。水茶屋は水⇒白湯⇒お茶⇒お酒となり、お茶菓子つまみ豆腐などの料理が出され、座敷が作られ、茶汲み女たちは三味線を弾いたり踊ったりして客を引くようになって、仕出し屋が料理を運び込むシステムが出来た。こうして現在のお茶屋となった。茶屋営業が祇園界隈に初めて許可されたのは寛文10年(1670)で最も栄えたのは19世紀初期でお茶屋700軒芸舞妓3000名を超え、幕末には西郷・大久保・高杉・桂などの志士の活躍の舞台となりました。大正時代からは夏目漱石・谷崎純一郎・吉井勇などの歌人文人が訪れました。
祇園は、明治14年甲部と乙部に区分され、昭和30年頃乙部は祇園東となった。祇園甲部は有名な赤いベンガラ壁の「一力」(万亭)を代表する歴史的景観保全地区に指定されて京都ならではの優雅な情景です。
先斗町―三条から四条まで南北に鴨川沿い500mの区域。起源は慶長19年(1614)鴨川沿いに高瀬川(角倉了以の運河)が造られて舟運が盛んとなってお茶屋や旅籠屋が急速に建ち並んだ。先斗はポルトガル語の「ポント」(先端)また「先ばかり」を意味すると言われている。
宮川町―宝暦元年(1751)にお茶屋の許可が下りた。八坂神社の神輿洗いの川筋に出来た町で宮川と呼ばれている。この河原は出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたことから芸人の集まる地域たなった。女歌舞伎から美少年の若集歌舞伎に変わり彼らの宿がこの辺りに多く「男色」の対象にもなり、現在の歌舞伎役者の屋号「音羽屋」「成駒屋」など宮川町の宿屋の屋号に由来している。町筋は歴史的景観保全地区に指定されている。
上七軒―京都最古の花街で室町時代北野天満宮が焼けて修造したとき残った材木を払い下げて建てたお茶屋「七軒茶屋」が起源となっている。天正15(1587)北野大茶会が催されたとき豊臣秀吉が休憩所とし、営業権が公許された。敷地は西方寺(西芳寺・苔寺)に属していて茶会の水を汲む井戸は西方寺にある。芸妓は天満宮の巫女が起こりとされている。機織りの町西陣に近く旦那衆の奥座敷と言われる。川端康成の小説「古都」や水上勉の「五番町夕霧楼」にも登場する花街です。秀吉が褒めたみたらし団子が紋章になっている。
祇園東は明治14年祇園が甲乙に区分され、昭和24年乙部は東新地となり、昭和30年頃から祇園東となった新しい花街です。変遷が激しくビルもできスナック・BARも混在する花街となっています。西側は映画ロケに良く出る「巽橋」や「辰巳稲荷」そして白川の流れる祇園新橋界隈は伝統的建築物群保存地区に指定されている。吉井勇の「かにかくや・・・」の歌碑や磯女のロマンもあります。

花街 お茶屋・芸妓舞妓の人数と踊りの流派

先斗町
宮川町
上七軒
祇園東
祇園甲

お茶屋
38
41
12
11
82

芸妓
44
33
18
11
89

舞妓
5
23
4
4
16

踊り流派
尾上流
若柳流・楳茂都流(うめもと)
 花柳流
藤間流
 井上流
合計
184
195
52
(平成13年現在)

おかあさんーお茶屋・置屋(屋形)の経営者おかみさんのことをこう呼ぶ。
血縁もなく、歳が若くても舞芸妓を続けて花街にいるかぎり幾つになつてもおかあさんである。おかあさんは舞妓の日常のすべての生活指導に当たり、生活費・衣装代・髪結い代お稽古代すべて負担する。舞妓は何事も報告し許しがなければ勝手なことは出来ない絶対服従の関係となっている。
おねぇさんー歳下でも先輩はすべておねぇさんと呼ぶ。おねぇさんのおねぇさんは大きいおねぇさんとなる。80歳になってもおねぇさんだ。(客もお爺さんでも「おにぃさん」と呼んでくれる。)会話のなかでは「桃子さんねぇさん」と丁寧に言うこともある。最も縁の深いおねぇさんは舞妓になるとき(お店だし)
手を引いて出てもらったおねぇさんで姉妹の関係になり、おねぇさんの四股名の一字をもらつて小扇さんの妹は小桃さんと名付けする。おねぇさんはおかあさんと共に妹の躾役でもあり庇護役もする。年功序列・先輩後輩の意識の強い花街である。
お茶屋と屋形―お茶屋は宴会場(芸舞妓の仕事場)である。客からの予約はお茶屋から屋形(置屋)の芸舞妓に伝えられる。屋形は芸舞妓の住まいであり芸能プロダクションである。上七軒と宮川町はお茶屋と屋形を兼ねている。宴会はお茶屋だけに限らず料亭で芸舞妓が出張の形で出向くことも多い。
舞妓さんー昔は14歳位でなったが、現在は中学卒以上で仕込みとして屋形に住み込み家族となって修業を始める。屋形のおかあさんは親から引き取ると一切の責任を持って、食費、衣装、装飾品、小物を揃え、芸のお稽古など、すべての費用を負担(立替)する。最低でも3000万円の資金が必要である。
日常生活は花街のしきたり花街言葉・芸事のお稽古以外に掃除洗濯買い物台所仕事使い走りなどの雑用をこなし就寝や入浴もおねぇさんが帰って来たあと午前23時頃となり、睡眠不足が続く。そんな厳しい躾を8~10ケ月勤めてようやく見習いとしてお座敷に上がり1カ月程おねぇさんと実習する。そして認められてお店出しとして舞妓一年生となる。5年位年季の明けるまで無給でお花代を稼いでおかあさんにご恩返しをするわけである。やがて自前(独立)となり襟替えして島田・勝山の髪型となり、芸妓となってお座敷に出ることになる。
舞妓の衣装・飾り・髪型・履物―京都の街かどで、最近は観光舞妓を見かけて見間違うことがある。本物の舞妓はすべてに決まりがあって季節の月毎に変わる簪、化粧の違い、店出しから何年目か?何処の花街で屋形は何処かまで分かり、会席により着替える衣装など実に細やかなしきたりがある。舞妓の象徴だらりの帯は家紋入りでくるぶしまである。帯留はポッチリと言う高価な
髪型は地毛で割れしのぶ、髪飾りは月毎に変わる季節の花簪・ビラカン・玉カン、履物はおこぼと呼ばれ、化粧は白塗りで襟足を書く、口紅は1年目は下唇だけ描く、
舞妓になる時くどいように念を押されるのは、若い男との恋愛は絶対に許されないことです。舞妓に出るためには、衣装代や宝石類など巨額のお金がいる。
それを全部置屋が立て替えるわけだし、その上おどり・三味線・短歌・鼓などあらゆるお稽古を仕込まなければならない。若い男には返す力がないからだ。
旦那になる人は舞妓にかかった借金を払った上で置屋やお茶屋が潤うようなお金を出せる人でないと困る。舞妓は勝手にやめると本人か実家が借金を負担しなければならない。
最近は大金を出せる旦那がいなくなって、何人かで旦那になるが知っていても黙っている。陰で「馬の足」と言う。踊りの会や盆暮には陰ながら援助をする。
御飯食べ
その日一日舞妓を買い切って、普段着で食事に行ったりクラブなどに同伴することで、舞妓は一日休日になるので喜ぶ。(花代だけで7~8万円)舞妓の仕事は化粧して着付け帯締めでお座敷を回り踊りをしたり、客の相手で緊張の連続となるので楽出来るわけです。
花街言葉
お~きに よろしおす おきばりやす ・・・とちゃいますやろか すみまへん
よろしゅうおたのもうします へぇ~そうどすか そうどす おいでやす 
よろしゅおす じゅんさいな  (身振り言葉もあって身振りで合図する)
お茶屋では一日でも先に舞妓になった先輩には言葉を返すどころか先に歩くことも出来ないほど、しつけが厳しい。先輩の舞妓芸妓が先に居る座敷に入るときは一人一人に「姐さん、おおきに、よろしゅうおたのもうします」と挨拶し、
先に帰るときも「姐さん、おさきいどす。すみまへん、おおきにどす」とわずらわしい程丁寧に挨拶するのがしきたりです。お座敷で聞いたこと見たことは絶対に言ってはいけない。
お座敷遊び
とらとら(和藤内) 金毘羅船々 べろべろの神様 野球拳 夫婦拳 迷惑拳
いろはのいの字 
踊りの会
上七軒  北野おどり  4
宮川町  京おどり   4月第一第1土曜日~第3日曜日
先斗町  鴨川おどり  51日~24
祇園甲  都おどり   331~430
祇園東  祇園踊り   秋
祇園小唄
昭和5年映画「祇園小唄絵日傘」マキノ映画金森万象監督の主題曲となった
長田幹彦作詞・佐々紅華作曲。お座敷で必ず踊る舞踊で舞妓が初めに習う。
だらりの帯
元禄期歌舞伎女形 水木辰之助が始めた。くるぶし迄ある帯で屋形の紋がついている。(観光舞妓との見分けは簪とこれで分かる)見習いの舞妓は半だらの
帯を締める。
「おおきに財団」

おたがいに おもいやり きくばりして にこやかに

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