2018年1月28日日曜日

「くれは・あやは伝説」  サンシティ池田まえにて
                               中岡 嘉弘

 こんにちは! 私は池田の郷土史を研究している、中岡と言います。
池田っていいまちですね!池田のことを色々調べていると、池田が大好きになります。
私は「池田大好き人間」です。
 今日はこの呉服校区となじみの深い「くれは・あやは伝説」についてお話をしたいと思います。皆さんは大体はご存知のことと思いますが、ほかの人に教えて上げることが出来ますか? そこでも一度「くれは・あやは伝説」を勉強してもらって池田の自慢をしてほしいと思います。
 去年は奈良遷都1300年祭がありましたが、この織姫伝説はもっと昔約1700年も前の古代のことです。
 伝説と言うと「つくり話」のようにも考えられますが、「日本書紀」と言う日本最古の歴史の本にちゃんと書かれていますし、又その頃の「応神天皇」「仁徳天皇」のお墓(古墳)も立派に残っていますので、全くのつくり話ではありません。しかし、その事実を少しふくらませて伝えられている部分もあります。
 応神天皇はその頃日本では綾織や染色・縫製の技術がなかったので、渡来していた阿智王とその息子都加王に中国へ渡って、これらの技術者を連れて来るようにお命じになりました。この「あち・つか」の二人は全権大使として応神37年(308年)春、今の西宮付近の「武庫の湊」を船で出発しました。この70年ほど前には邪馬台国の「卑弥呼」が中国「魏の国」に使いを送っていますが、その頃の航海は命がけで小さい船に板で波除をつけた程度の船で天候と風を頼りに瀬戸内海を通り九州へ、それから朝鮮半島の西側を沿岸と島伝いに、今の北朝鮮「高句麗」まで行きましたが、その先が解りませんそこで「くれはくれし」と言う案内人をつけて、今の上海から揚子江を遡って「建業」(南京)にようやく到着することが出来ました。そして呉の国から兄媛・弟媛・くれはとり・あやはとりの
4人をもらって応神41年(313年)九州の筑紫に到着。沖ノ島の宗像大神に兄媛を献じて残りの3人が無事「武庫の湊」に帰って来ました。なんと5年間もかかりました。
応神天皇はすでに亡くなられて仁徳天皇の御代となっていました。
 ここまでの話は日本書紀に書かれていますが、その後のことは一切書かれていません。
それでそこからがつくり話と言うか想像するしかないのです。
 色々な伝説がありますが、その一つは阪神西宮東口にある松原神社の前には染殿池・
絹掛松などの遺跡がありますし、近鉄橿原線の結崎駅東の川西町には「糸井神社」があって同じ伝説があります。塚口の上坂部には伊居太神社があります。
 しかし私は「唐船ケ淵」に上陸したと言う池田の伝説が正しいと信じています。何故なら「あちつか」の子孫は阪上氏で池田氏が来るまでは、宇保を根城として池田をずっと支配していました。今ある「猪名津彦神社」は元「阿智主使・都加主使」のお墓(古墳)でした。
 このほかに呉服校区にはくれはとりと応神天皇をお祭りした呉服神社・姫室。満寿美町には池田市の市章となっている「染殿井」もあります。また由緒ある呉服町・姫室町・
室町などの地名があります。この呉服校区に住んでおられる皆さんは誇りをもって郷土愛を育ててほしいと思っています。
 
どうも有難うございました。



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