2018年3月8日木曜日

日本の歴史第1巻


日本の歴史物語です   
第3巻 [ 戊辰戦争から現代まで ]

◆ 大名はクビ ( 拙書・「雑記帳 歴史の項」 大政奉還と版籍奉還と廃藩置県 参照 )
 戊辰戦争が終わり明治新政府は天皇を中心とする国の方針を発表した。先ず第一に行ったことは明治天皇が、祖先である日本の神々に誓う形で『五カ条の御誓文』を発表した。その内容は次の通りである。
 「(ひろ)会議(かいぎ)(おこ)万機(ばんき)公論(こうろん)(けっ)スベシ」 (何でも会議を開いて決       定しょう)
② 「上下心(じょうげこころ)(いつ)ニシテ(さかん)経綸(けいりん)(おこな)()ベシ」 (身分が高くても低くても心を一つにして国を豊にする様頑張ろう)
③ 「(かん)()一途(いっと)庶民(しょみん)(いた)(まで)(おのおの)(その)(こころざし)()人心(じんしん)をして()まさらしめん(こと)(よう)す」 (役人から庶民迄それぞれの願いが叶う様な国にしょう。こんな国は嫌いだと、思わない国にしょう)
④ 「旧来(きゅうらい)陋習(ろうしゅう)(やぶ)天地(てんち)公道(こうどう)(もとずく)くへし」 (古い習慣を捨てて、自然の原理に基づいた国にしょう)
⑤ 「知識(ちしき)世界(せかい)(もと)め大に皇基(こうき)振起(ふんき)すへし」 (広く世界から学び、天皇を基に国が栄える様に努力しょう)
難しい文語体であるので、現代語を書き添えた。理想の高い御誓文であるが、はたして実現出来たのだろうか。年号は明治と改元して、天皇一代に年号一つと云う「一世一元の制」を採用し、
天皇は東京に移り、東京が新しい首都となった。そして政府は『富国(ふこく)強兵(きょうへい)(さく)』を掲げた。文化の進んだ外国に追いつけ追い越せの政策をとる。その方法として軍事に関係ある殖産興業 (産業の育成) を目指した。一環として群馬に国営の富岡製糸工場を造り、輸出用の生糸の増産を計った。
 第二に行った事は戊辰戦争には勝ったが、新明治政府にとり目触りの存在があった。各地にいた大名であった藩主の存在である。幕府に味方した藩主は戦争で片づけたが、倒幕に参加した藩主がその儘残っている。特に薩摩・長州・土佐・肥前 (略して薩長土肥) の藩主達、特に長州の藩主は「俺はいつ将軍になれるんだ」と期待があったと云う。新明治政府にとり、こんな時代錯誤の権力者はいらないジャマなだけある。新政府は中央の政策が全国に浸透する様に『中央集権国家』を目指していたから、各藩の地方分権では外国との交渉もままならない、ヘタすれば植民地となる。と、云っていきなり藩を潰すと旧藩主が東京に攻め上るかもしれない。そこで2回に分け改革をした、まず『版籍(はんせき)奉還(ほうかん)』即ち旧藩主に領地領民を天皇に返還させ、藩主は大名ではないが知藩事(ちはんじ)(明治初期の地方長官)なる役となり、2年後に『廃藩(はいはん)置県(ちけん)』を断行して全国の藩を廃して府・県を置いた。この時、知藩事は東京に移住させて罷面(クビ)、入れ替わりに中央から府知事、県令 (県知事) が派遣された (NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の第41~42回で簡単にこの件が放映されていた) 。これで中央集権国家が出来上がった。
 第三に新政府が行った事は、諸外国の文明の勉強である。実際にアメリカやヨーロッパに行き学ぶということで、右大臣・岩倉具視をリーダーに大久保利通、木戸孝允を副使として諸外国に行った (遣隋使や遣唐使と同じこと) 。この『(けん)欧使節団(おうしせつだん)』は諸外国の文明を目の当たりにし、条約を結んでいる諸外国との友好を深める意味もあり、井伊直弼が結んだ「修好通商条約」の見直しの下準備もあった。2年間かけて各国を回った。
 使節団が外国を回っている間に国内では次々と施策を打ち出していった。先ず戸籍法の制定 (税金徴収の為) 、義務教育制度 (男女共6歳から小学校へ)地租(ちそ)改正(かいせい) (米を年貢で納めていた制度から、現金で納税させる) 、それから徴兵制度 (男子が20歳になれば3年間軍隊へ) が出来た。こうなれば富国強兵のもと新しい制度や文化が入り、庶民の生活も変わってくる。洋服を着て牛肉を食べ洋式の建築も出来、ガス灯も点いた。新橋と横浜間には蒸気機関車SLが走り、郵便制度も始まり、陰暦に変わり太陽暦が使われる様になり、1週間が7日に決まり日曜日が休みになった。文明開化でいろいろなものが怒濤のように押し寄せた。
  
  ◆丁髷(ちょんまげ)からざんぎり頭に変わり、五カ条の御誓文が実現されつつある様にも見え、国内(特に都市部)は縦板に水を流す様に変わっていった。そんな時代の歌に「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」の狂歌があった。
◆しかし、国内にはくすぶる問題もまだ残っていた。
 
◆ 国内最期の内戦
 遣欧使節団がいない間、三条実美・西郷隆盛・板垣退助らは留守番の組であった。既に清国(しんこく)(現・中国)とは『日清(にっしん)修好(しゅうこう)条約(じょうやく)』を結んでいたが、朝鮮はアジアで最期の鎖国をしていたので、国交の交渉をしても断わられていた。これに対して朝鮮にペリーがかって日本に開国を迫まろうとした強引な態度が西郷隆盛や板垣退助の『(せい)韓論(かんろん)』であった。しかし、帰国した岩倉や大久保らの使節団はその征韓論を聞いて、「朝鮮を攻める?、まだ、そんな国力ではない」と反対した。西郷・板垣らは「あんたらが居ない間に、俺ら頑張ったんだぜ、そんな事も無視かよ」と、この朝鮮問題で政府に不満を持ち西郷らは政治家を辞めてしまう。そして「おまんら明治政府は薩長土肥の藩閥政治やんか!、国民から選挙で選ばれた人が政治するべきぜよ」と国会の開催を目指して『自由民権運動』を板垣は展開した。
 一方、西郷は地元の鹿児島に帰り政治活動するわけでもなし地元の士族達と生活していた。でも、この士族達は政府に不満を持っていた。廃藩置県は始まるは、徴兵制は行うは、我等の西郷さんを追い出すは、もう爆発寸前で、ついに士族達は西郷さんに無断で政府の武器庫を襲い、『西南戦争』が起きた。西郷さんこれを聞き「しかたなかとでごわす、一諸に戦うでごわす」と決意した。若い士族達のエネルギーに巻き込まれ不本意ながら立ちあがった。「新政府に物申す」と上京しようとするが、新政府軍に阻まれ九州での戦いとなり、新政府軍の軍備にさすがの薩摩隼人も叶わず、薩摩に逃げ帰り西郷隆盛は「もうこのへんでよか……」の言葉を残し自害、西南戦争は終結した。これが国内の最期の内戦となる。
 一方、朝鮮の方は軍事力で開国させ『日朝修好条約』を結ぶ。
 板垣退助は武力ではなく言論で戦い、全国的な『国会期成同盟』を結成、8万人以上の署名を集め「憲法を作れ!、国会を開け!」と要求した。政府はこれを無視できなく国会を開くことを約束した。
 こんなことがあり、政府は憲法制定と国会開催の為、伊藤博文をヨーロッパに派遣して各国の憲法を調べさせた。その中で天皇制に合ったのがドイツの憲法であった。そのドイツの憲法を日本流にアレンジして出来たのが兎も角もアジア初の近代的憲法、『大日本帝国憲法』である。この憲法は立憲君主制であって全ての権限は天皇にあって、天皇主権の憲法で陸軍・海軍を動かす権利も天皇であり、国民は『臣民』であり、天皇の家来であると云う内容である。
 ところで、憲法制定のなか国会開催も着々進められ、内閣制度が作られ内閣総理大臣を中心に、複数の大臣により政治を行う様になった。初代の内閣総理大臣は伊藤博文、これに外務・内務・司法・文部・農商務・逓信・陸軍・海軍の各大臣が構成メンバーで、相変わらず薩長中心であった。
 これで、憲法・内閣もできたので次は衆議院総選挙である。でも選挙権のあるのは、「直接国税を15円以上納める満25歳以上の成年男子」に限られた。故に投票できる人は全人口の1,1%程度であった。しかも男子に限られ女子の選挙権が認められるのは、戦後になってから。今からみると矛盾だらけ。それは兎も角選ばれた議員により『第一回帝国会議』が開かれた。国会は選挙で選ばれた『衆議院』と貴族から選出された『参議院』で、いよいよ曲がりなりにも日本近代化の始まりとなる。
   
 ◆最後の内戦で西南戦争は終結した。
 ◆板垣退助は言論で明治政府に立ち向かう。
 ◆大日本帝国憲法を制定させ、選挙により衆議院を選ぶまでになっ
た。
 ◆力をつけた明治政府は中国・ロシヤと戦争を行うようなる。
 

◆ 眠れる獅子を相手に、日本が初めて体験した対外戦争
 日本が列強諸国に追いつこうと立憲政治と殖産興業にひた走っていた頃、朝鮮は日本と清国の板挟みになっていたが、結果的に清国に従がっていた。何故なら朝鮮半島で清国の力が増すと、日本国防上不利になるから。その様な時朝鮮では農民による反乱「(こう)()農民(のうみん)戦争(せんそう)」が起きた。朝鮮は清国軍に鎮圧を求めたが、日本も「朝鮮の公使館を守る」の名目で朝鮮に派兵した。それでその農民戦争が終わっても、日本軍も清国軍も一歩も撤退しない状態が続いた。ついに双方の軍隊が衝突し、『日清戦争』が勃発した。戦いは軍備を近代化した日本軍が優位に進め、清国軍を降伏させた。
 これには欧米の列強国も驚いた。清国は「眠れる獅子」と云われ誰も本気を出した清に敵わないと思っていたから。たかが30年程前に開国したばかりの日本に負けるなんて、誰も思ってはいなかった、欧米の列強国は日本を見直した。
 その後、日本は清国と『下関条約』を結ぶことになる。
1  清は朝鮮の独立を認める事。
2  清は遼東半島を日本に譲り渡すこと。
3  清は台湾を日本に譲り渡すこと。
4  清は澎湖(ほうこ)諸島(しょとう) (台湾海峡に存在する島々) を日本に譲り渡すこと。
5  清は賠償金2億テール (約9000億円) を日本に支払うこと。…etc
下関条約にある遼東半島は、欧米列強国にとっては戦略的に重要な場所であった。だから下関条約にイチャモンをつけてきた、特に帝政ロシヤはご存じの通り北の国。冬は凍ってしまうシベリヤには自由に出入りできる港がない。冬になると港が凍り船が停泊できない。だから南下政策で、冬でも凍らない旅順・大連がある遼東半島が欲しかったので日本のものとなると困るわけ。とうとうロシヤはドイツ・フランスと共に「遼東半島は返してやれよ」と云って来た (これを『三国干渉』と云う) 。日本には迷惑だが三国相手に戦う軍事力はなかったので、「なにお~、清との条約にイチャモンつけんなよ」と思ったが、受けざるを得なかった。が、清からの賠償金2億テールで八幡製鉄所を建設、ここで生産された鉄は軍備増強に使われる。
その後、清では国内での外国勢力に反発した義和団事件が起こり、清の権力者「(せい)(たい)(ごう)」もこれを応援し、ついには欧米列強国に宣戦布告したが、清は日本並びに欧米諸国 (8ヶ国) により壊滅状態になり負ける。この時日本は最大の兵力を送り事件を鎮圧したので、イギリスなどからはその軍事力の強さを認められ、「極東の憲兵」と認識された。そんな時、どさくさに紛れてロシヤが満州を占領してしまった。            
 これに日本・イギリス・アメリカが抗議しロシヤはシブシブ撤退した。こんなこともあり日本とロシヤの関係は悪化の一途を辿って行く。そこで日本はロシヤに対して中国に利権をもっていたイギリスと『日英同盟』を結んだ。日本にとっては「ロシヤと戦う時に、ロシヤに応援がついたらイギリスが参戦してくれる」と心強い約束である。この後、日本はロシヤへ宣戦布告した。但し無暗に宣戦布告したわけではない、日本とロシヤでは国力に10倍以上の差があった。しかし (ここが当時の日本の偉いところ) 、日本はきちんと外交して、周りの国から参戦してこない様に手回しをし、さらに初めにある程度勝利した段階で、有利な講和を持ちこむと云う戦略を持ち合わせていた (後の日中戦争、太平洋戦争の時はそれが全くない、何の見通しもない戦争をした) 。そして陸軍・海軍が連携して行動が取れていた (日中・太平洋の戦争はそれぞれが勝手に行動、別々の国を相手に戦うと云う世界史上類を見ない愚かな行動をとっている)
日露戦争は、海軍による旅順への攻撃が始まるが失敗 (広瀬中佐の戦死、太平洋戦争時は軍神として崇められる。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」) 。次は陸軍による旅順の要塞を攻めるが、大将は乃木(のぎ)(まれ)(すけ)。この戦いは凄惨を極め6万人の戦死者が出た。この後、児玉源太郎が二百三高地のロシヤの要塞を破壊したことをきっかけに、旅順を制圧した。
  旅順を制圧され旅順艦隊が壊滅したロシヤは、ヨーロッパにいた世界最強のバルチック艦隊を向わせる。ついに世界最強のバルチック艦隊と日本海軍の激突が始まる。この時の連合艦隊司令長官は東郷平八郎元帥。巨大な船が多いバルチック艦隊を狭い海峡におびき寄せ、横一列で縦に進んでくるロシヤの艦隊を順番に撃ち沈めたと云われる。バルチック艦隊はヨーロッパの北のバルト海からアフリカを遠回りして (近道のスエズ運河はイギリスが抑えていた) 疲れてきた状態でやってきたこともあり、全くの五分の条件の勝負ではなかった。とは云え「世界で最初に黄色人種が白色人種に勝利した」と、世界中でも「あっ!」と驚く出来事であった。この後、アメリカのルーズベルト大統領に仲介をお願いして講和条約が終結された。しかし、この条約が甘いと東京日比谷で暴動が起き、厳戒令まで出された (いつの時代でも文句を云う人はいるもの)
そして、中国とロシヤに勝った日本は、韓国の支配を急速に進め始めた。韓国の首都に韓国統監府なる韓国支配の役所を設置した。初代の統監は伊藤博文であった。しかし、反日家の韓国青年により暗殺される。伊藤博文は韓国合併に反対した唯一の政治家であった。その伊藤が亡くなった事で、韓国を合併する話が急速に進んで、『韓国併合条約』が終結され韓国は日本の領土になる。この様な実績を残した、日本はもう欧米列強の仲間入り。そこで、小村寿太郎 (政治家・外務大臣経験者) の活躍により、アメリカに『関税自主権』を認めさせた。これで井伊直弼が結んだ不平等条約を完全に白紙に戻すことになった。
 
◆日本初の対外戦争の件を長々と記したが、これでも大分略さざるをなかった。しかし、日本歴史上、大切な出来事。
◆「眠れる獅子」の中国に勝ち、大国をあっと云わせた日本。さらに、ロシヤとの戦争にも勝ち、列強諸国の仲間入り。その実力を背景に、日本は朝鮮半島の支配を強めていった。
◆日清・日露戦争を経験し、産業革命を体験し、まるでジェットコースターの様な起伏の連続が日本を襲ったのが明治時代であった。
◆その様ななか、ヨーロッパでは、各国を巻き込んで世界大戦が勃発し、日本には次なる試練が待ち受ける。現代の我らが、よくもまぁ、こんな平和でいられると思わずにはいられない出来事の連続である。
 

◆  奇跡の復活劇
 激動の幕末から明治の時代は幕を閉じ、ハイカラな大正時代に入るが、激動の幕はチョン (拍子木の音) と閉じた訳ではない。
 ところで、明治の終わり頃中国では孫文が清王朝から独立する運動を起し、中華民国が誕生する。
日本陸軍はこの中国を警戒して朝鮮に2個師団増強を要望するが、政府は財政難を理由に要望を却下した。すると陸軍大臣が「じゃぁ、オレ辞めるわ」で辞表を出して、陸軍は次の大臣を出さない、出さなければ内閣は成立しなく総辞職した。代わって桂内閣が発足したが、議会を無視した政治を始め、これに、犬養毅・尾崎行雄・各新聞社が猛反発。「桂、お前、憲法をちゃんと守れ」と護憲運動が盛んとなる。これで3次桂内閣はたった53日で総辞職。桂の後を継いだのが海軍大将・山本権兵衛だが海軍高官の汚職が発覚し内閣は退陣し、次は国民に人気のあった立憲同志会の大隈重信が陸軍の支援もあり当選した。これで陸軍もやっと朝鮮に2個師団を増強出来た。この様に軍部は気に入らない政策があると「大臣を辞めて、大臣を出さない」戦術を使った。大臣がいないと内閣は総辞職となるので、しぶしぶ軍部の云う事を聞かなければならない。こうして軍部の発言力が強まってくる。
 ところで大正3年1914にサラエボでオーストラリアの皇太子がセルビヤ人に暗殺される事件が起きた。怒ったオーストラリヤはセルビヤに宣戦布告し、これをきっかけにヨーロッパ各国が参戦し、『第一次世界大戦』に発展した。日本はイギリスと日英同盟を結んでいたので、イギリスとドイツは敵同士なので、日本はイギリス側の連合国として参戦したが戦場はヨーロッパが中心なので、なんと日本は「中国にドイツの基地がある」と中国のドイツ領に攻め込み青島(ちんたお)や太平洋のドイツ領を占領した (確かこの時の事をドラマにした東宝映画があった、加山雄三主演でタイトルは忘れたが見応えがあった) 。日本は連合軍の為と称して中国での勢力拡大を狙っていた。ヨーロッパ各国は戦争の為、文句を云う暇もない、それを良い事に日本は中華民国に利権を拡大していった (姑息と云えば姑息だなぁ~)
 戦争と云えば国家レベルで殺し合いすることだが、兵器の開発のため科学も急速に発展させる。飛行機・戦車・毒ガス・潜水艦など、様々な新兵器が開発されて、市民も巻き込んだ無差別殺人が繰り返される。

◆日韓併合で韓国を支配し始めた日本は、さらに勢力を増していく。
◆ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦。日英同盟を口実に日本は中国へ進出を始めた。
◆第一次大戦後、国際連盟が発足するが。

 第一次世界大戦のなかロシヤは戦争長期化の為、兵士や民衆の不満が溜まり、抗議が起こり大混乱となる。外では戦争、内ではデモでロシヤはもうグチャグチャ。そんな時、レーニンが革命を起し、皇帝ニコライを処刑した。そして世界初の社会主義国家の『ソビエト社会主義共和国連邦』が誕生した。このロシヤ革命によりロシヤは大戦を離脱した。
 この社会主義なるものは「みんなで稼いで、みんな平等に分ける」の考え。そこには国王も皇帝も資本家も社長もない。そんな考えが広まると、日本やイギリスにような国王のいる国は困る、資本家の多いアメリカも困る。そこで各国は社会主義革命の政権打倒でシベリヤに出兵した。イギリス・フランスはヨーロッパ戦線で忙しいから、主力は日本とアメリカ。
 このシベリヤ出兵の時に日本の商人達は「出兵なら米の値段が上がり高く売れるぞ」と米の買い占めをする。国内には極端に米が不足してくる、これに怒ったのがおばちゃん達「冗談じゃないわ!お米よこしなさいよ」と富山県の魚津のおばちゃん達が米屋を襲撃した。これが新聞に報道されると各地で米屋を襲うおばちゃん達が続出した (神戸の米騒動もこの時) 。この一連の米騒動で寺内内閣が総辞職 (おばちゃんパワー恐るべし)
 やがて、シベリヤ出兵が終わっても第一次世界大戦は続行中で決着がなかなかつかない。焦ったドイツはイギリスを攻撃するのに潜水艦を活用した。「イギリスに行き来する船はどこの国の船でも沈めてしまえ」作戦。そうすれば「イギリス国内の物資が不足して困るだろう」の思い。この作戦にアメリカは参戦してなかったが、ドイツがイギリスに行き来する船を沈め始めた事により、当然アメリカ人が乗る客船も沈められた。これにアメリカが怒って参戦し、イギリス・フランスと共に連合国として戦い勝利した。これで4年間続いた第一次世界大戦は終わりを告げた。この時にドイツの皇帝は逃げ出し、国は共和国になるが『ベルサイユ条約 (敗戦国ドイツに対しての賠償条約) 』により、プライドの高いドイツは悲惨な屈辱的な目に合う。
この後、アメリカの提案で『国際連盟』が設立した。この連合は国際平和の為に、国際的な組織を作ったもので、42ヶ国が参加した。機構の設立は素晴らしかったが、残念ながら国際連盟は第二次大戦を阻止できなかった。そこにはいくつかの理由がある。それは云いだしたアメリカはモンロー主義 (米国5代大統領モンローが提唱した「欧州の事は米国は口出ししない、だから、米国の事は欧州が口出しするな」と云う当時の米国の外交の原則) の原則を守るの意味で不参加。ドイツは敗戦国なので仲間はずれ、ソ連は社会主義なのでもちろん仲間はずれ。国際的に影響力のある国の不参加がいくつかあった。
また、この連盟では多数決でなく全会一致方式の決議がとられた。つまり反対国が一つでもあれば、議案は成立しないと云う事。これでは重要なことは決定できなかった (後に多数決となるが) 。それに武力制限手段を持たなかった、仮にある国が禁じられた侵略や残虐行為をやっても、連盟は独自の軍隊や平和維持軍が無かった為、文書や口頭での勧告しかできなかった事が、連盟がうまくいかなかった主な理由である。しかし、この様な組織が存在しなかった第一次大戦より、格段に進歩したことは間違いない。なお、この連盟に日本は常任理事国に選ばれていて (アジアで唯一だ)新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)(旧五千円札の肖像画の人物。札幌農学校・東京帝大等で学ぶ。農学者・農政家・法学者・教育家・農学・法学・哲学の博士号を持つ戦前の日本の代表的知識人・キリスト教徒)が事務局次長(連盟のNO2)に選ばれていた。

◆長期にわたる世界大戦もアメリカの参戦により終結する。
◆戦争の反省もあり、国際連合が誕生するが、その機能は不十分であった。
◆一方、日本は大正デモクラシーの真っ只中。自由の空気が盛り上がって行く。
 

 第一次世界大戦後の日本は、ものすごい好景気になっていた。理由はヨーロッパは第一次世界大戦でもうボロボロで復興の為物資が欲しい。そこで無傷の日本からドンドン物資を輸出してドンドン儲け、生産量を増やそうと工場を広げたり、設備投資をして輸出量を増やしたりして稼ぎ成金が出現してくる。そうなると政府も税収が増えて、日露戦争から続いた財政難を克服した。
 でも、こんなことは何時までも続かない。ヨーロッパ各国が徐々に復興してくると、自前で物資を作れるようになって来るから輸出量は減って来る。そうなると、輸出用の品は余ってくる。過激な設備投資が経営を圧迫し始める。それで一転、不景気になった。
 それまでの好景気を支えていたのは低賃金で長時間労働の現場労働者。「何だ!俺達の働きのおかげで、経営者は贅沢な暮しが出来るんだろう、職場環境の改善もしろ」と都市部では労働運動が盛んとなり、第一回メーデーが開かれた。また、農村部では地主に対して小作料の引きさげを求めて、賀川豊彦(キリスト教主義社会運動家・牧師)らにより『農民組合』が結成され、同じ年に新平民と呼ばれ差別受けていた人々を救う為に『水平社』が設立され、さらにさらに『日本共産党』もこの年に結党され、こうした庶民の力は女性にも影響を与え、それが『女性解放運動』で市川房枝も婦人参政権の実現に尽力した、大正デモクラシーである。
 また、そんな一方、大正時代は今の我々に馴染み深いものが出来た時代と云える。サラリーマンが増え、丸の内ビルなど鉄筋のビルが出来、マンモスアパートが出来た。トンカツやカレーライスの洋食が流行り、三越デパートが出来、宝塚少女歌劇団も出来た。洋服が流行ったので短い髪でスカートをはいたモダンガール (モガ) が出現し、山高帽にステッキのモダンボーイ (モボ) が闊歩した。
 そんな時、大正12年19239月1日1158分突如起きたのが『関東大震災』マグネチュード7.9の大地震であった。死者・行不明者合わせ14万人以上、ものすごい被害を出した。火を使う食事時間だったので火災が起こり、その上「朝鮮人が火をつけた、井戸に毒を入れた!」とデマが飛び、このデマを信じた人も多く、朝鮮人への暴行・殺戮(さつりく)(むごたらしく多くの人を殺すこと)も行われた (ひどい)
 この地震のあと国内では普通選挙の運動が盛んになったり (と、云っても女性は認めないもので、25歳以上の男性のみ、以前と変わりなし) (ひろ)(ひと)親王 (後の昭和天皇) が狙撃されたり、普通選挙法に加えて『治安(ちあん)維持法(いじほう)』が制定され、政府に都合の悪い人間の口封じが出来る様になった。そんな中、大正天皇が崩御され大正時代は終わり、軍部が暴走する昭和が訪れる。
 

 ◆第一次世界大戦のおかげで、日本の景気はウナギ登り。
 ◆それに伴い、労働者や女性の権利主張が強まる。大正デモクラシ
ーである。
 ◆しかし、普通選挙法制定のもと、地安維持法が成立。軍部の支配
が始まる。
 

 時代は昭和となり、まもなく『世界恐怖』がくる。第一次世界大戦後アメリカは輸出で、ものすごい好景気であった。アメリカにジャンジャン金が入るのでダブついた金で株を買った、靴磨きの少年でさえ投資を薦めた程だった。
 しかし、過剰な投資が続くと「株価が実質より上がり過ぎればいつかは下がる」と云うのが株。ある日、売りが少し多くなって株価が予想以上に下がってしまった。これが新聞に「株価が大暴落」と報じられたからさあ大変、途端に売りが続出して株価は急落し、ついには大暴落した。株券が紙屑になって投資家はパニック、アメリカ初め各国の銀行はバタバタ破産した。株価が大暴落したアメリカの大恐怖が世界中に及び世界恐怖となった。アメリカへの生糸などの輸出に頼る日本経済も大きな打撃を受け、大量の失業者が発生した。農民の生活は苦しくなる一方で役所には「娘の身売り」相談の掲示までが出される始末であった (昭和恐怖)
 話は変わるがその頃、高性能の日本の艦艇に脅威を感じた国が集まり『ロンドン海軍軍縮会議』があり、日本は内容に一部不満はあったが調印した。しかし、これに海軍の一部は不満でこれが原因となり、海軍の青年将校達が首相官邸に乱入して、「話せば分かる」「問答無用、撃て!」ズドンと首相・犬養(いぬかい)(たけし)を暗殺した。これが『五・一五事件』となる。この後、「昭和維新(昭和戦前期の日本で起きた国家革新の標語)」・「尊王討奸(そんのうとうかん) (天皇を尊び天皇の悪い取り巻きを討つ) 」をスローガンにして、1483名の兵隊を率いてのクーデター、即ち『ニ・ニ六事件』が起き、斉藤内大臣・高橋蔵相・などを殺害し、政治の中枢の永田町・霞が関・赤坂・三宅坂の一帯を占拠した。これに昭和天皇は大激怒、早速武力鎮圧するように討伐命令を発せられ、放送やビラを捲いて呼びかけた。
下士官に告ぐ
1  今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
2  抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
3  お前タチノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ泣イテオルゾ
これには、陸軍の青年将校は驚いた「えっ、尊王討奸の皇軍なのに逆賊になるのか」と青年将校達の思いは天皇には通じなかった。兵士達は続々と投降していき、このクーデターはあっけなく終わった。
 その頃の内閣は、現役軍人しか陸軍大臣に就けなかったので、軍の協力なしに内閣維持はできなかった、だから軍部の勢力は次第に強まっていった。
   
◆昭和に入り、世界恐怖が世界中を襲い、この打開の為に各国は躍起
になる。
◆軍部の青年将校の反乱もあり、軍部の発言力は増大する。
◆そして、ついに満州国占領と軍部の暴走が始まる。

 その頃、日露戦争で勝利した結果、日本政府は南満州鉄道を経営していた。そしてこの鉄道の警備隊 (後の関東軍) が満州に配備されていた。その鉄道の(りゅう)(じょう)()附近の線路上で軽い爆発が起きた。それを関東軍は中国軍の仕業として即座に報復に出て、内閣の「これ以上戦闘拡大しない」の方針を無視して、ほぼ満州全域を占領する。これを『満州事変 (事変と云うのは宣戦布告がない国際法上正式でない戦争の事) 』と呼ぶ。実はこの南満州鉄道の爆発は関東軍の自作自演で、侵略の口実が欲しかったのである。日本政府は戦闘拡大をしない方針だったが、関東軍は無視・無視、半年足らずで満州全土を統治した。これは立派な侵略になるので、関東軍は理由を考えて清王朝の最後の皇帝・(あい)(しん)(かく)()薄儀(はくぎ)を担ぎ出し、満州国を建国し関東軍の傀儡(かいらい)国家とし関東軍の思い通りの政治を行った。
 これを見た中国は国際連盟に訴えた。「日本軍の侵略により出来た満州国なんて無効だ」と。国際連盟は調査団を送り調査を始め、その結果中国の言い分を認めた。すると日本は「なんだ、俺らの言い分も聞けよ!、こんなのやってられっかぁ~」と連盟を脱退した。これで日本は国際的に孤立してしまう。それでも陸軍は事の重大さに気付かず、満州だけで満足せず中国全土を狙い始めた。時に折も折、満州と中国の国境付近で日本軍に中国軍が発砲し、陸軍はこれを「チャンス」と中国に攻め込む。いよいよ中国との全面戦争となり『日中戦争』が始まった。中国は蒋介石の国民軍と毛沢東の共産党(八路軍)が喧嘩していたが、これを機にお互い手を組み日本を迎え討つ為に『抗日(こうにち)民族統一戦線』を組織した。
 日本国内では中国との戦線が拡大してきたので『国家総動員法』を制定、「戦争の為に国家が国民の人的・物的財産を自由に出来る」と云う法律。これで、いつでも必要なだけ男子を徴兵できて、国民の財産も国家が自由に没収出来る様になった (物凄い理不尽な法律。実際こう云う法律があったんだよ、今の若い人に理解出来るかな)
 一方、ヨーロッパではドイツやイタリヤがファシズムを広げ軍備を拡張、ナチス党を中心に周辺国に侵略を開始した。イギリス・フランスはこれを静観していたが、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、宣戦布告した。これが『第二次大戦』の始まりである。
 ドイツの快進撃が続くなかドイツ・イタリヤは国際連盟を脱退していた日本と同盟を結ぶ。これが『日独伊三国軍事同盟』である。当時の近衛文麿首相は「多くの政党がゴチャゴチャ云っている場合ではない。国家が一つになる事が大事だぁ~」と、『大政(たいせい)翼賛会(よくさんかい)』なる政党を作り、他の政党は全て解散させ、一国一党支配を実現した。財界もこれに習い『大日本産業報国会』を結成、『大日本婦人会』『大日本青少年会』と相次いで結成された。個人主義無視の全体主義となって、軍国一色の国家となった。
 その頃、中国の戦線では日本軍が北京や上海を占領、中華民国政府の南京も陥落した。それでも蒋介石の国民軍はアメリカ・ソ連から軍需物資の応援を受けゲリラ作戦で抗戦し、戦局も打開できず長期戦になっていた。それに日本は連合国の敵であるから石油輸出の禁止の制裁を受け、アメリカや中国に同調したイギリス・オランダと共に「ABCD(Aがアメリカ・Bがブリティッシュ即ちイギリス・Cがチャイナ即ち中国・Dがダッチ即ちオランダ)包囲陣」で、日本は孤立状態だった。
 そうなると日本は石油・鉄・工作機械など多くをアメリカから輸入していた日本は致命的となる。軍艦・飛行機・戦車となんでも石油が無ければ只の鉄の塊に過ぎない。そこで日本はインドネシャ諸島・フイリッピン諸島など南方に進出していく事になる。
 この経済制裁の打開の為日本はアメリカと交渉するが、「中国大陸・インドシナからの撤退」「日独伊三国同盟の否定」を要求され、さらに、アジアの潜水艦部隊に対し、日本への物資を送る船を全て沈める「無制限潜水艦作戦」を発令した。日本はこれを日本に対する最後通告と受け取り、アメリカとの開戦を決意した。そして真珠湾攻撃となり同時にイギリスのマレー半島に上陸し『大東亜戦争 (戦後GHQの言論統制により太平洋戦争に改名) 』の幕開けとなる。
 初戦は怒濤の勢いで太平洋上の島々を占領し、海戦にも勝ち続けた。しかし、ミッドウェー海戦で日本海軍は大打撃を受ける、この海戦で死者は3000人以上になった。この海戦で日本は戦闘が急激に低下して、前線補給も儘ならなくなり、ついには撤退に次ぐ撤退となる。ヨーロッパではイタリヤが降伏、続いてドイツが降伏し日本は完全に孤立状態となった。
 国内では物資も乏しくなり『配給制』が始まった。そして制海権や制空権を手に入れたアメリカは日本本土に空襲を始めた。学童疎開も実施された。戦局は後退・後退で、硫黄島はアメリカの手に、沖縄への上陸も始まった。
 特に沖縄の戦いは悲惨だった。沖縄市民は降伏を許されず「生き恥をさらすよりも死ね」と云われ、市民を守るべき軍隊は市民を見捨て逃げる有り様。とうとう集団自決で10万以上の死者を出し、その多くが民間人であった。そんな状況下に連合国側から『ポツダム宣言』が勧告されるが、日本政府は無視し、政府や軍部首脳は負けを認めなかった。そこへついに広島に原爆投下、続いて長﨑に原子爆弾が投下され、ここで日本はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏をした。そして天皇の玉音放送により、国民に敗戦が伝えられた。軍部の暴走による侵略戦争は全て終わった。

◆華々しい初戦もミッドウェー海戦で、形勢逆転。
◆敗戦に次ぐ敗戦で、硫黄島や沖縄を占領され本土空襲が開始される。
◆ついに原子爆弾の投下で無条件降伏である。
◆そしてGHQによる日本占領政策が開始される。

 戦争に負けた日本は、アメリカを中心とした『連合国軍総司令部(GHQ)』に占領され、その最高司令官はマッカーサーであった。マッカーサーは日本に戦争させない為に、日本を弱体化し民主化を進める。先ず軍の解散・軍事産業は全てストップ・治安維持法の廃止・財閥の解体・農地改革 (大地主から小作人に土地を安く売り渡す) など、一部権力者が上から命令する縦社会を解体した。
 次は戦争責任、戦争に責任のあった軍人や政治家を逮捕し裁判を行った、それが『東京裁判』。でも本来全ての戦争責任は天皇にあるが天皇は裁かなかった。何百年も続いた天皇家を裁けばすごい反抗と反乱が予想されたからである。逆に天皇の存在を使って日本を統治することを選んだ。
 次にGHQ修正の『日本国憲法』を作った。この憲法の基本原則は
「国民主義」=      主権は天皇でなく国民にあると云うもの。
「基本的人権の尊重」=  国民の人権を尊重する。  これで人権無視の国策は出来ない。
「平和主義」=      軍隊を持たずに、戦争を起さない。の3つであった。
 この他、『労働組合法』や『労働基準法』が制定され、過酷な労働が行われない様に労働条件や基準が決まった。続いて『教育基本法』が制定、軍国主義から民主主義の教育に転換、教育勅語を廃止して男女共学が開始された。
日本はアメリカとの戦争では徹底的な敗北をした。日本の主要都市には爆弾や焼夷弾が次々と投下され、焼け野が原となった (自らのこの体験、B29の爆音、空襲警報発令のサイレン、焼夷弾投下、爆弾炸裂の音、人の悲鳴、機銃掃射、うず高く積まれた焼死体、バラック小屋の中に板と茣蓙を敷きまどろんで三度の食事もままならずなど、この光景この体験は今も頭の中に焼きついて忘れようとしても忘れ得ない) 。万事休す、といったところに原子爆弾である。日本は二度と立ちあがる事は出来ない、敵に(はらわた)(えぐ)り出されて、それが地に擦りつけられる程の敗戦で再起不能と思われた。
 その後、第二次大戦と国際連盟の反省から『国際連合』が出来たが、資本主義と共産主義の対立、東側陣営と西側陣営による代理戦争、中東戦争、朝鮮戦争・ベトナム戦争などとあちこちで戦いはあったが、日本は直接的戦争に巻き込まれる事なく、戦後の廃墟のなかから国民の努力で国として復活出来たのは『まさかの奇跡の大復活劇』の結果ではなかったか。運の良さもあったが、これはやはり日本人の底力の賜物であり、それは古代から続く自然との戦いや地域のトラブルを和の精神で解決したり、勇ましい武士道で対処した日本人の精神性が土台となっている。現に阪神・淡路大震災、東日本大震災も被災地では略奪も放火も支援物資の横流しもなく、多くのボランティヤが黙々と立ち働き、日本人は諸外国から「先進国でもありえない、すばらしい資質を持った民族だ」と賛辞を受けた。日本人は自らを強調する事なく耐える事、譲ることを知る民族だからこそ、苦しい状況にあっても礼儀正しく振舞っていられる。これらは長い歴史のなかで(つちか)ってこられたものではないか。ネットもメールもない時代から180度転換してネットもメールもある時代に変わり、平成時代の今日には人々の生き方にも変化が出てきたが「逆境のない人生はない」。もし電気が消え、暖房や冷房がなくなり、水道の供給が止まった状況の中でも、どうしたら人間が、冷静さを保ち、思考の停止をしないで、笑顔で弱い者を助けるという人間性を失わないで、如何なる努力の歴史を刻めるか。これからも少子高齢化問題、格差社会到来問題、犯罪増加問題、沖縄米軍基地問題、国の借金問題、北朝鮮拉致問題、南京虐殺事件可否問題、従軍慰安婦問題等の近隣国との不仲問題など数え切れない問題を日本は抱えている。しかし、これまでの波乱に満ちた歴史を歩んできた日本人は、今後いかなる困難な道をも乗り越えるに違いない。                                    
スポーツ国際試合の応援ではないが『頑張ろう日本』  

H28.9.  Y.H

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