2018年3月8日木曜日

日本の歴史第1巻

日本の歴史物語です  第1巻 [ 旧石器時代から安土桃山時代 ]

はじめに
早いもので今年は戦後70年となった。昭和一桁生まれの自分にとっては、現在の世の中は隔世の感がある。「欲しがりません勝つまでは」の戦争期から、現在は一応平和憲法のもとに何とか暮らしていける時代となった。自らは観光関係の交通会社に定年過ぎ迄務めた後、ボランティア活動に従事し、今は障害で手足が不自由となった妻の介護をしながら日々を勤しんでいる。最近は介護をしながらも時間的余裕が少し出来てきたのでボケ防止にと思い、現役時代に仕事を通じて教わった日本のアチコチの歴史史跡に感動したことを思い出しながら、日本歴史を物語として簡単にまとめてみた。(よわい)八十をすでに越し、九十に向って歩みつつある今、思い出すのにも時間がかかり、調べるのに専門書が有るわけでなし、自分が今迄教わったことを走り書きしたノートを調べたり、図書館を訪ねたりして、出来るだけ肩が凝らない文章で記す様に恥ずかしながら試みた。但し、日本歴史はこんな簡単なものではない。多くの事件や経緯があり、実に波乱万丈であり、ここに書いていることはその一部に過ぎない。物語としてまとめようとしたので、年号は出来るだけ意識的に抜いている。読んでくださる方の幸せを祈りつつ……。 
                     平成27年9月起 Y,H 記                       

 何も無い、従って貧富の差はなし、平等の世界
現代はインターネットを通して世界のあらゆる人と情報のやり取りが出来る21世紀、小・中学生でさえ携帯電話を持ち歩き一瞬で世界の裏側にもメールを送信出来る時代となった。
しかし、人類が誕生したと云われるのは今から650万年以上と考えられる。時は氷河時代と云われ、日本列島はユーラシア大陸と地続きで日本海は大きな湖であった。この頃の人間はみんな平等であった。先生もいなければ社長もいない。リーダーもいなければ国王もいない。石を打ち欠いて作った打製石器とよばれる道具を使いながら、洞窟に住んで共同で狩をしたり、木の実の採集で平等に分配して生活していたと考えられる。なにもない時代だったけれど、人間には他の動物と違って知恵があって石器を作って暮らしの道具とした。この時代を旧石器時代と呼ばれている。
 
当時、そこに住んでいた我等の先祖はITどころか紙もエンピツもなく、文字すらない時代をどの様に生きてきたのか。ただ単に弓矢でナウマンゾウやオオツノジカを追い、それらの肉を皆で分け合う生活で貧富の差はなかった。動物の移動に合わせて、生活圏を変えて行く、食べていくために必死の時代だった。でも、人間が一番逞しかった時代かもしれない。

やがて1万年余り前に地球の気温が上がり氷河が溶け、海面が上昇して日本列島が出来た。大陸と陸続きだった日本列島が島国となった。これによりナウマンゾウなどの大型動物はいなくなり、その代りシカやイノシシなどを (この頃より犬を使っての狩猟も行われる様になる) その肉を平等に分け、木の実を採り、樹皮で作った袋にクルミを入れて移動生活する (今で云えばピクニック) ほど、おおらかと云える生活であった 。やがて旧石器時代よりやがて縄文時代となり、発掘による出土品の中にも個人的な富を意味する副葬品など出てこないので、おそらく貧富の差や階級差はなく、平等な共同生活だったのであろう。現代人はこの様な平等でみんな仲良しなんて縄文人になりたいと思うだろうか。しかし、1万年以上前は現在の我等に理解出来ない風習があった。その一つに抜歯(ばっし)と云って成人式として前歯を抜く、抜くと云っても歯科医院で麻酔をかけて「痛かったら左手を挙げて下さい」なんていうフォローはない、いきなり抜いて顔中血だらけの感じ。「こんな痛い目をしたから、おまえは成人だ!」と云う通過儀礼 (イニシエーション) を通らなければならなかった (やっぱり縄文人になりたくない~)
またこの頃、人々は土を()ねて土器をつくる様になった。土器には縄目の様な文様(もんよう)つけたのでこの土器を縄文土器と呼び、時代を縄文時代と呼ぶ。この呼び名の起こりはアメリカの動物学者モースが明治初期に大森貝塚 (東京都内) で発見し、発掘報告書のなかで「縄文」との言葉使用したことから、縄文土器と呼ばれる様になり、縄文時代の単語も登場した。
 この時代は動物に加えて植物も積極的に食べる様になっていたので、貯蔵・料理に便利な土器が開発されたとされる。粘土を捏ねて形を作り、焼き上げて硬くしたもので、この際表面を平らにするために縄 ()り縄ではないか) で粘土の表面を平らにする為にコロコロ転がして削っていくことにより、焼き上がりに縄目の文様がつく、これを縄文と呼んだ。
 扨 この土器の役割だが、貯蔵は勿論のことこの土器を皿にして、物を煮ると云う習慣が始まった。これで料理のレバートリーが増すし、火も通すので衛生面でもGOOD。料理内容は肉を捏ねて中に栗や松の実を入れ塩で味付け、今で云えばハンバーグ。また、どんぐりを原材料としたクッキー。それから海からはハマグリ・シジミ・アサリなどの貝を食べたのはもちろんのこと、サケ・マス・カツオなどを釣り上げて食べ、なかには外洋に出てマグロや鯨も獲った人々もいたとか、これは、かなりの航海技術と人々の共同協力が無ければ難しい。 (縄文人恐るべし)
 また、発掘調査の結果、縄文時代の人々は「お酒」も飲んでいたと推測される。さすがに生ビールはないが、主に果実酒を飲んでいた (グループで平等に酒を酌み交わし手拍子をとりながら歌を唄っていたか?、カラオケの始まりか) 。
 このような縄文土器のおかげで、始めて貯蔵が出来る様になり、以前の様に得物を追いかけて生活する必要が無くなり、彼らは定住することになる。動物を追いかけて移動生活は大変だから、どうせ住むなら、やっぱり一戸建てに限る。洞窟では煙がこもるし、日当たりも風通しも悪い、そこで家を建てることにした。それが『竪穴住居』で彼らは家を建て、だんだん集落を造るようになる。集落は少し大きくなるが、まだ、基本的には平等であった。

◆ 三拍子揃った文化をもつ弥生時代  戦いの始まりの時代
 縄文時代はなんと1万年以上もの長い間続いた。一口に1万年と云うが、はるか東方の彼方イスラエルの地にキリストが生まれてから今年で2015年、そう考えると縄文時代がどんなに長く続いたのか。また、今から100年前と云えば明治の終わりか、大正の始まりか、その100年を100回繰り返さないと1万年にならない事を考えるとすごい長さである。これほど長く人類が生き続けられた生活スタイルは、今と比べものにならない程、安定的だったと思われる。なにせ現代の生活スタイルでは、ほんの数百年続くだけで「地球がアブナイ」と云われる時代だから。
 縄文人が平和な生活を営んでいた頃、中国では稲作が発達し、青銅器や鉄器を用いる高度な文化が起こっていた。
これらの文化がやがて日本に伝わる。即ち①稲作の普及、②金属器の伝播(でんぱ)(広く伝わる)、③縄文土器から弥生式と云われる土器への移行であった。今から2500余り前の画期的なことであった。   
特に稲作は画期的なことであった。現代人は「何だぁ~、米かぁ~」と思うかも知れないが、米をバカにして(あなど)ってはダメ、この稲作の伝来で生活が激変したのだから…。日本の将来を大きく左右する出来事であった。何しろ縄文時代は狩猟・漁労などの採取経済であるので、毎日が緊張状態。現在で例えればフリーターや非正規社員みたいな感じで、いつ収入が途絶えるかわからない。しかし、農耕と云うのは、凶作など想定外のときもあるが、採取経済よりは安定している。その上お米は保存がきくので、ずい分と計画的な生活が出来る様になった。そこで、竪穴住居の他に高床式倉庫も作られそこに米を保存した。この倉庫には床下の柱にネズミ返しも付けられ、ネズミに荒らされる心配もなかった。
 また、この頃には青銅器と云われる金属器も伝わってきた。この青銅を使って銅剣・銅鐸・銅鉾などが作られた。鉄器も伝わり実用的に使われたらしい。
 ところで、この時代にはそれまでの縄文土器とは変わった縄目文様のない薄手で丈夫なすっきりとした形の土器が作られる様になった。このタイプの土器が初めて発見されたのが、東京の弥生町であったのでこの種類の土器を弥生土器と云い、この時代を弥生時代と呼ぶようになった。
 この三拍子揃った文化をもった弥生時代はBC3世紀頃からAC3世紀頃迄を云い、縄文時代が進化したと云うよりも、全く別の文化が到来した大変革期であった。
然し、好じ魔多し、この時代も良い事ばかりは続かなかった。この頃になると大勢の仲間と集落を造っての生活。稲作は二人や三人では出来ない、どうしても共同の作業になる。こうなると、もう個人が勝手に米を作ったり、狩りをしたり出来ない。従って集落が大きくなればなる程、集団をまとめるリーダーが必要になる。各集落にリーダー的 (縄文社会には居なかった人) な人が現われてくる様になった。集団が大きくなるとリーダー一人では大変、そこでリーダーを補佐するブレーンも必要になる、占い師がその中の一人であった、「今年は豊作だ」「不作だ」と占った (先行きに不安を感じるのは昔も今も一諸) 。占い師は皆に尊敬されたと云うか恐れられたと云うか、占い師に都合の悪い人を「神のお告げ!」とかで抹殺(まっさつ)(葬り去る)したりしていた。また、占い師は銅剣や銅鐸や銅鉾を使って権威を見せつけていた。
 リーダーやブレーンの手腕によっては集落毎に米の収穫などに差が出来、貧富の差ができてくる。必然的に貧しい集落は、優秀なリーダーに「仲間に入れてよ」となる。また米の奪い合いがはじまり、力自慢のリーダーのなかには収穫時期を狙って他の集落を襲う、ここで狩りの道具を人に向けて使う様になったのもこの頃。集落と集落は戦闘状態となり、勝った集落は敗れた集落を支配して、トーナメント的にビックになりこれが『国』に発展し、リーダーは「俺は王だ」となってきた。その結果、日本には百以上の『国』が出来た。
 


◆弥生時代は、『稲作』で始まった事が最大の出来事。
◆収獲の多少により、貧富の差が出来てしまった。
◆それに、役割分担により、指導者階級と労働者階級と、身分の
が出来てしまった。
◆そして、時が経つと小さな集団は大きくなり、国ができていく。

 弥生時代は文字も本も無かったが、隣の中国には文字も本もあり、当時の日本の事はほんの少しであるが知ることが出来る。中国の歴史書に最初の日本のことが記されるのは、BC1世紀頃、つまりキリストが生まれる数十年前、中国 (漢の時代) の歴史書『漢書』に次の様に書かれる。『()楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)倭人(わじん)()り。分かれて百余(ひゃくよ)(こく)()る。歳時(さいじ)()って来たり(けん)(けん)すと云ふ』 難しい文章で分りにくいので訳すと“楽浪郡[北朝鮮のあたり]の海の向こうに倭人[日本人]がいる。百以上の国に分かれて暮らしている。歳時に献上品を持って拝謁す” と、日本についての史料はこれで全て (少なすぎてガッカリまあ全然ないよりはましかも)
 小さい国は大きい国に吸収され、さらに大きい国となる。2世紀後半ごろより日本 (当時は()(こく)と云われる ではリーダー (王) の小国の戦乱は続き、男の王では治まらなかったようで、3世紀前半には卑弥呼(ひみこ)を女王にたてた(じゃ)()(たい)(こく)ができ戦うが途中で女王は死に、その後、男王がたつが混乱して、またしても男王ではダメ、そこで卑弥呼一族の()()が女王となり、やうやく国が治まった (今も昔も日本の男は頼りない)

◆国が出来て、国同志が協力して、また争って、一諸になり大き
な国になる。
◆大きい国に小さい国が吸収され、さらに大きい国になる。指導
者は権力を持ち、身分の差はどんどん大きくなる。
◆この様な戦いのなかで各国の王たちは権力者の象徴としてバカ
かい古墳を造るようになり、古墳時代が来る。
 


◆ 権力の象徴の古墳  ヤマト政権の始まり
 弥生時代と古墳時代をはっきり分けるのは難しい。 (アイスコーヒーにミルクを入れると区切りがもやーとする、あんな感じ)
 この頃より王たちはデッカイ墓を造るようになり、これが権力の象徴として王が死ぬ前から工事にかかっていた。「墓がでかけりゃ庶民は尊敬して言う事を聞く」とでも思っていたのか。そして古墳造りは7世紀頃まで続く。古墳時代は三期に分けられ、前期は3世紀中頃~4世紀後半、中期は4世紀後半~5世紀末、後期は6~7世紀。ちなみに大化改新645年)は7世紀であるから、その頃はまだ古墳が造られた。
 この古墳にはいくつかの形があって、円墳(お椀を逆さにしたような形、盛りつけたチャーハンみたいな形)、方墳(四角い形)、上円下方墳(方墳の上に円墳が乗っている)などあるが、なんと云っても日本独特なのは前方後円墳である。こんな古墳はなんと全国に大小合わせて16万基以上もあった。
その中で、でっかいのが大阪堺市大仙町にある『大仙古墳』である。以前は『仁徳天皇御陵』と云われた。発掘調査をして真の仁徳天皇陵かどうかを調べようとしたが、宮内庁の許可が降りなかった (お役所・お役人はいつもこうなんだから…) 。高さは30㍍、外堀の周囲はなんと3㌔弱ある。あまりの大きさに近くで見るとただの森にしか見えない。
 これら墳丘の表面は葺き石でコーティングされてピカピカ (今は木が繁り山みたいだが) オブジェとして馬や家・兵士など様々な『埴輪』が廻らされていた。これは、そもそも王が死んだら殉死と云うのがあって、「王一人では寂しい」と家来や使用人などが一諸に埋められた。卑弥呼の死のときなどは100人もの使用人が生き埋められたとか (いくら使用人でも、そりゃぁ~惨いわ) 。そこで、代わりに埴輪を埋葬する様になった。
 その様ななか、国は戦いを通して吸収合併を繰り返し、ついに大和地方の王がバカでかい近畿政権を創る。この政権をヤマト政権と云った。このヤマト政権は各地の王の連合体で運営された。そのうちの王の王即ち『大王』が国を治めるようになる。外国(朝鮮半島)に戦争しにも行った。そしてこの大王が天皇へと呼称が変わっていく (大王が天皇の呼び名になるのはずっと後、第40代天武天皇の頃)
今迄のストーリーをまとめると、縄文時代に日本列島が形成され、貧富の差のない縄文人が活躍。その後、稲作が取り入れられて、貧富の差や戦争が勃発して小国のバトル開始。そのなかで邪馬台国が出てきた後、空白期間があり、近畿のヤマト政権が力を握った…。そしてそのヤマト政権は朝鮮の高句麗や百済と戦争にまで行った。
戦争をしたり、また使節をもって (あるいは王自身が) 挨拶に行ったりして、大陸との交流が出来る様になった。交流してみると長い歴史を誇る大陸や朝鮮半島には日本人より賢い人が沢山いるではないか。その賢い人が日本に来て、土木工事や織物などを教えてくれるようになった。日本人は彼らを『渡来人(とらいじん) (外国から日本に来た人。特に古代、4~7世紀ごろに朝鮮・中国から日本に移住してきた人々のこと。武具製作・機織り・農業などの先進技術をもって大和政権の軍事・政治面に重要な位置を占め、文化の発展にも尽くした)と呼んだ。

◆王の権力としての古墳。各地に様々な古墳が造られる。
◆そして国は集約され強大な国が誕生する。『大和朝廷』がそれ。
◆王は大王となり、やがて天皇となっていく。
◆しかし、天皇を上回る権力者が現われる。

◆ 外国人に負けない賢い人が現われる
 やがて時代は飛鳥時代に入るが、王の権力の象徴としての古墳はまだ各地に造られていた。そして国は集約され強大になっていき、『大和朝廷 (朝廷とは天皇が政治を行う所) 』が確立していった。しかし、その頃天皇を上回る権力者が現われた。大王=天皇よりもっと大威張りしていた一族があった、()()(うじ) (渡来人と云われる) である。蘇我氏は物部(もののべ)(うじ)と共に朝廷の中で勢力をふるっていた  (天皇を天皇と思わず自分の権力に天皇を利用した) 。
 ある時、蘇我馬子と物部守屋との勢力争いで、「仏教を認めるか」で論争となった。『日本書紀』には“欽明天皇は下僕たちに云った。「西の方からきた仏はキラキラしている。拝んだほうがいいかな、止めたほうがいいかな、でもキラリ感がすごい」。すると()(がの)稲目(いなめ)が云った。「西の方の多くの国はこの金ピカ仏像を拝んでいる。日本だけ拝まない話はない」。すると物部(もののべ)(のお)輿(こし)は反論した。「日本には、たくさんの神様がいる。春夏秋冬いつも拝んでいるのに、いきなり外国から来た、このよくわからん神らしきものを拝んだら、日本の神が怒るに違いない。ダメなものはダメッ拝んだら…」。すると天皇は云われた、「それでは、蘇我稲目に預けるから、実践的に拝んでみて」と記される。それから、蘇我稲目が仏像を拝む様にしたところ、なんと、偶然にも疫病が発生。「これは蘇我氏が仏像を拝んでいたからだ」と非難ごうごう。物部氏は部下を派遣して仏像を浪速の堀江(これが大阪堀江のあみだ池)に捨ててしまった (これの後日談に善光寺物語あり) 。その為、崇仏派の蘇我氏と、廃仏派(神道派)の物部氏は政治闘争も絡んで争いとなり、ついに、蘇我馬子が物部氏を滅ぼした (仏教の伝来は私的と公的があり、私的は渡来人が個人的に持ち込み信仰していた。公用的は552年に欽明天皇の時、百済の聖明王が使者を遣わして、仏像や教典を献上した) 。
 こうなると蘇我氏の天下、敵対者がいなくなり、いぜんよりも威張り天皇も手がつけられない状態。そんな時に表れたのが聖徳太子(しょうとくたいし)。この太子は蘇我氏・物部氏のバトルの時には蘇我氏側に味方し、勝利祈願の為に大阪の四天王寺を築いた人。勝利のあと推古天皇を助けて摂政(せっしょう) (天皇が女性や子供のとき、天皇を助け天皇に変わって政治を行う位の高い役) となった人である。
 そして、聖徳太子は603年に『冠位(かんい)十二階(じゅうにかい)』と云う制度をつくる。これまでは家柄が悪ければ、優秀な人でも高い役職には就けなかったが、これよりは、家柄が悪くても能力や手柄があれば、それなりの役職につけるようになった。続いて翌604年には『十七条の憲法』もつくられた。『憲法』と云っても人民の為の憲法ではない (当時、庶民は字が読めないし) 、役人に対しての『社訓』みたいなものである。有名なところを抜粋すると
    『一に(いわ)く 和を以って(とおと)しとなし』
「ひとつ、 みんな、仲良く仕事をしなさい」の意味。裏を返せば当時蘇我氏などの豪族同志の争いが絶えなかった。
    『二に曰く 篤く三宝を(うやま)え』 
「ふたつ、 三つの宝を大切にしなさい」 三つの宝とは「仏」「法」「僧」の事、「仏様とその教え、教えを広める僧侶を大事にしなさい」の意味。要するに「仏教を大切に」の意味。当時の日本は神道で皇室の祖先である天照大神始め八百神を大切にしたが、太子は自らが天皇家の出身でありながら、従来の神々を差し置いて仏教を大切にしなさいとは、今では違和感が無いとしても、当時としてはかなり画期的だった。
    『三に曰く (みことのり)(たまわ)りては必ず(つつし)め』
「みっつ 天皇の命令には必ず従いなさい」の意味。詔とは天皇の命令のこと。つまりこの命令には必ず従いなさいと云っている。当時は巨大豪族が目立ち過ぎて、天皇が抑えられているこの状況を打破したかった。この頃は、そもそも、蘇我馬子は物部氏を滅ぼしているし、崇峻天皇は暗殺されているし、もう政治はドロドロの世界。
これを見ると太子が日本を治めるにあたってどの様な国にしたいかがよく分かる。一番大事なのは「和」、つまり仲良くすることの話し合いの精神。これはいまの日本にも強い影響を及ぼして、日本人は何でも話し合いで解決すると思う人が多い。従って会議を好み、裁判はあまり好きではない。白黒はっきりして、どっちが勝ちでどっちが負けを決めると恨みや因縁が残るのを恐れる。現在でも民事裁判では和解と云って仲直りさせることを勧めて、なるべく判決を下さない様にする。
そして、太子は仏教をとても重要と考えた。外国の宗教であった仏教を大事にしなさいと、肝心の天皇はその次だった。太子が如何に「和」や「仏教」を重んじたか。
その思いが太子は仏教の象徴として法隆寺を造った。現在でも世界最古の木造建築である。金堂の柱を見ると真中が膨らんでいる。ギリシャのバルテノン神殿の柱に似る。この頃はまだ外国の真似であった。日本文化と云っても、まだ歴史は浅かった。インドやペルシャ、朝鮮の百済などの文化を参考にした。そしてこの頃の文化を『飛鳥(あすか)文化(ぶんか)』と云う。
また、太子は607年に(ずい) (現・中国) に使節を送った『(けん)隋使(ずいし)』と云う、その代表が小野(おのの)妹子(いもこ)。どうしても隋の方が文化が進んでいる (何でも教えてもらいに行かなければと) 。その時、太子は妹子に持たせた親書がすごかった。『日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや』(日が昇る国の天皇様が、日が沈む国のお前に、手紙を書いてやった元気か。[チョツト大袈裟に訳したかな]) と、喧嘩になりそうな内容。しかしこれは今迄の「朝貢(ちょうこう)外交(がいこう) (相手国に敬意を表し貢物を捧げる外交) 」と違って「対等外交」であった。相手の隋の王は大変に怒ったが、しかし、この頃、隋は他国と戦争をしており、日本と戦争する余裕がなく、無事に交流が始まった。この時、4人の僧侶も共に渡り、中国の律令(法律制度)を勉強し日本に伝え、それが起爆剤となり大化(たいかの)改新(かいしん)につながる。
聖徳太子は母の(あな)穂部間人(ほべのはしひと)皇女(のこうじょ)が亡くなった明くる年に病に伏し亡くなった。『日本書紀』には、この時の人々の様子をこう記す、「王族・諸臣及び天下の百姓ことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ちた。耕す男は鍬を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず、皆、日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだ。今後、誰を頼りにすれば良いのか」と記される。 享年48歳であった。

◆天皇を凌ぐ権力をもった蘇我氏を抑える為に現われた聖徳太子。
◆太子の偉業は様々に語られるが、最も大きな功績は仏教を広めた
事。
◆仏教は日本人に浸透し多く受け継がれている。
◆そして、太子亡きあと蘇我氏の復活を阻止する人物が現われる。
 


◆ 大化(たいかの)改新(かいしん)律令(りつりょう)国家(こっか)
 聖徳太子の死後、再び蘇我氏が力を取り戻し威張りだし天皇を困らせた。聖徳太子の息子である(やま)(しろ)大兄(おおえの)皇子(おうじ)の一族を抹殺してしまうなど、横暴のかぎりをふるった。あまりにもひどい振舞いに「蘇我氏のヤカラを何とかしなければ」と思っていたのは太子だけでなく、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかおみのかまたり)であった。
 ある時、中大兄皇子が蹴鞠(けまり)をしていた時、皇子の靴が脱げて飛んだ。すると中臣鎌足が靴をキャツチ、こうして二人は知り合った。当時中大兄皇子は高校生ぐらいで、中臣鎌足は中年のオッサン。その上、皇族と中臣氏は平民と云う身分差だったが、中臣鎌足はよほどの才覚の持ち主と思われる。この後、二人は小野(おのの)妹子(いもこ)と共に隋に渡った僧・南淵(みなみぶのち)諸安(のしょうあん)の塾に通う。南淵は帰国後、中国の律令知識を教えるため塾を開いていた、二人はそこに通って律令の勉強をした。二人はおそらく() (現・日本) にも律令制度を取り入れて、天皇中心の中央集権国家を確立したいと考えていた。しかし、そのシステムが出来ると権力を一手に握っていた蘇我氏には面白くない。蘇我氏は律令の成立を妨げるに違いない。となるともう()るしかない。そこで、645年「朝鮮から使節が挨拶に来たっ」とウソをついて、蘇我入鹿(そがのいるか)を皇居に呼び出し、その場で中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺した。入鹿を失った父蝦夷(えみし)一族は屋敷に立てこもるが、中大兄皇子らに取り囲まれて、万策尽き自ら屋敷に火を放った。こうして古墳時代から飛鳥時代迄権力を誇った豪族・蘇我氏が滅亡した。
 その後、中大兄皇子は都を飛鳥(あすか)から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に移して政治を行うことにした (まあ、気分一心ってことかな) 。まず年号を『大化 (歴史上初めての年号・昭和とか平成と同じ) 』と決めた。そして、時の皇極天皇 (中大兄皇子の母) は『改新(かいしん)(みことのり)』を宣言された。内容は
  公地(こうち)公民(こうみん)
「土地と国民は天皇のものだ!だから、庶民は天皇のために働け!」の意味 (今の感覚で云えば、そんなのひどい! と思うが、いやいや、当時はそれが当たり前、誰も気にしていない)
  班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法』
中国の律令制をモデルにした制度。この法律により戸籍ができて、6歳になると天皇より田んぼが与えられた、これが「口分田(くぶんでん)(耕地のこと)」と云う。 えっ? 田んぼがただで貰える? ラッキーと喜んではいけない。実はこれは有難くない田んぼであった。6歳以上の男は二段 10㍍四方の正方形が24ヶ分位) 、女はその2/3が与えられた。これは死ねば国に返さなければならない土地で (レンタルシステムのようなもの) 、しかも面積に応じて重い税が課せられた。つまり、「これだけ田んぼを与えるからしっかり耕して米を納めろ」と云う事。あまり、ほしくない田の法であった。
  租庸調制(そようちょうせい)
中国の律令をモデルにした新しい税制。内容は3種類もの税を納めなければならなかった。
租……収穫の3%の米を税として収めること
庸……一定期間、都でただ働きをすること、工事など肉体労働が主だった。但し都まで行けない地方の人は代りに布を納めた。
調……各地方の特産物を納めなくてはいけない。
  国郡里制(こくぐんりせい)
中国にならって地方を国・郡・里に分けて行政区域を定めた (現在の都道府県・市町村区域制度に影響がある) 。それぞれの長は地方で選ぶのではなく都で任命されて派遣された。これで『中央集権型の国家』を目指したことがわかる (但し、これらの方針が実現されるのは大宝律令以降、8世紀になってから)
 権力をほしいままにした蘇我氏を倒した中大兄皇子と中臣鎌足は天皇を中心とした『大化(たいかの)改新(かいしん)』を実施する。こうやって律令にもとづく改革政治を進めていた最中のこと、親密な関係にあった朝鮮半島の百済が唐と新羅に攻められ滅亡し、日本に支援を要請してきた。日本の朝廷も捨ておくわけにもいかず、大軍を送り唐・新羅の連合軍とバトルとなり、これを『(はく)村江(そんこう)の戦い』という。

◆権力を欲しいままにした蘇我氏を倒した中大兄皇子と中臣鎌足。
◆天皇を中心とした大化改新を実施する。
◆それにより、庶民には公地公民や租庸調制の実施も始まる。
◆そして百済を応援した日本は、唐の復讐に脅える事になる。
 


◆ 戦いと皇位継承に悩む
 当時、朝鮮半島に百済国があり日本とは親密関係にあった。その百済が新羅と争いになり、隣国の唐が新羅を応援して百済は滅亡。そこで日本は要請により、復活をめざして百済の応援に出るが、白村江の海戦で負け戦となる。
 中大兄皇子は白村江の戦いで負けたのでハイおしまいを云う訳にはいかない。もし、朝鮮半島の軍が攻め込んでくるかも知れない。そこで都を内陸の大津に遷す。そこで即位して天智天皇となる。そこで近江令と云う法律を作ったり、唐・新羅の襲撃に備えて防衛強化と国内体制の整備を急いだ。『(みず)()』と云う土塁や堀を作ったり、『防人(さきもり)(そう云えばさだまさしさんの歌で「防人の歌」と云うのが以前にあった。若い人々はご存じだろうか)と云う軍隊を配置したり、山城の防護施設も各地に造られた。天皇の晩年は唐に怯えながら過ごしていたと思われる。そんななか、中臣鎌足は病の床で『大織(だいしょく)(かん)』と云う高い官位を与えられ「おまえは今後、藤原と名乗れ」と云われ、中臣鎌足は藤原鎌足となる、ここで藤原ネームの誕生。その後、天皇は謎の死を遂げた。
 天智天皇が亡くなると弟の『大海人(おおあまの)皇子(おうじ)』と息子の『大友皇子(おおとものおうじ)』が天皇の後継争いをする。二人は叔父・甥のなかであったが、大友皇子は天智天皇の子とはいえ、母親は身分の低い女官であった。これに対して大海人皇子は天智天皇と同じく、斉明天皇を母とし、長年兄の天智天皇を助けて政治にかかわってきた実力者である、これらが原因で二人は天智天皇の生前から対立していた。  
(ここからは少し文章がヤヤコシクなるので、ゆっくり読んでネ) 天智天皇が亡くなる直前、大海人皇子は出家して吉野に逃げ、大友皇子は近江で即位したとか、まだそれにいたらなかったとか(明治時代に弘文天皇の称号が与えられる)。一方わずかのうちに大海人皇子は天智天皇の施策に不満をもっていた地方豪族 (大化改新でパッとしなくなった豪族) の支持で挙兵した。吉野をスタートし伊賀・伊勢・美濃を経由しながら、東国の兵も集め大津でバトルとなり勝利を得て、大海人皇子は天武天皇として即位した。これには二人の間に一人の女性 (悲恋の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ) を得る争いも絡んでいた (いわゆる三角関係) 。天智天皇の後継者の大友皇子はわずか1ヶ月で自殺に追い込まれた。これを壬申(じんしん)(らん)と云う。
大海人皇子は天武天皇として即位し、都を大津から飛鳥淨(あすかのきよみの)御原宮(はらのみや) (奈良の明日香 に遷した。この内乱は叔父と甥の戦いであるばかりでなく、天智・弘文・天武3代の天皇やそれぞれの子や妻を巻き込む骨肉の争いであった。天智の娘が天武の妻 (後の持統天皇) になり、天武の娘が弘文の妻になっていた。そしてこの内乱は壮絶な血の争いであったが、その後の歴史に大きな影響を与えた事件でもあった。
天武の即位も重要だが乱の結果、旧来の多くの豪族が没落し、天皇による独裁政治の土壌が生まれた。壬申の乱は、天皇中心の国家をつくる為の推進力となった。
天武天皇の妻であった持統天皇は在位時に『富本銭』と云う貨幣をはじめてつくり、『藤原京』と云う都も開いた。藤原京は我国初の本格的な宮都で、後の平城京や平安京の都のモデルとなった。この天武・持統朝の文化は『白鳳(はくほう)文化(ぶんか)』と呼ばれる。代表的な寺は薬師寺である。この寺はなんと天武天皇が皇后の病気平癒の為、祈願して造ったもの。妻の為に寺を建てるとは、何と云うセレブっぷりだろう。
持統天皇の息子が成人して文武天皇となり『大宝(だいほう)律令(りつりょう)』と云う律令を制定した。律は刑法で令は行政法の意味で、これが日本初の法律となる。
この律令は中央即ち大和に各専門の役所を置き、地方に国司、その下に郡司などを置いてこれにより朝廷を頂点とした政治体制と整わせた。源氏物語などに出てくる右・左大臣や、大納言などの名称、八色(やくさの)()(ばね) (部長・課長・係長みたいな身分秩序性) などは律令制で確立された役職名である。
また、身分制度も確立し、全ての国民は(りょう)(せん)の何れかに属することになり、良は皇族・貴族・官人など支配階級の人々と、天皇の所有である公民 (公務に参加出来る国民) ・工人である品部(ともべ) (朝廷の属した技術者集団) (ざつ)() (官庁に属した鍛冶や武器製造などの技術者集団) を指す。
一方、賎は五色の賎とも云われ(りょう)()(皇室の陵墓を守衛する賎民)官子(かんこ)(官有の賎民)家人(けにん)(私有の賎民)()()()(官有の奴隷)()()()(私有の奴隷)を指す。
当時、日本の人口は500万人でそのうち官人 (公務員みたいな高級職) は1万人、貴族は100人程であった。弥生時代に発生した身分制度は、大宝律令が出来た事により、わずか数百年で超特権階級と奴隷を生んだ。この律令は制定後200年間、平安時代初期まで法として機能していた。しかしその後も消滅した訳でなく、形式としては明治時代の内閣制度が確立されるまで続いた。また、この天武天皇の頃、天皇の権力の強化がはかられてくると、大王(おおきみ)にかわり天皇の称号が公式文書として用いられるようになり、『日本』の国号が正式に用いられるようになった。
日本の身分制度と云えば士農工商が知られるが、それよりずっと以前に、人を奴隷とする法律があったわけである。
 
 ◆天智・天武の時代は実に波乱万丈であった。
◆百済を応援したばっかりに唐の復讐の怯え、天智天皇が亡くなる
と、トタンに跡目争いであった。
◆遷都も頻繁に行われる憂き目にもあったが、初めての法律の大宝
律令も何とか生まれた。そして、ついに平城京の政治が始まる。
 


◆ 平城京の実態
 大法律令が制定されてより天智天皇の四女が元明天皇として即位し、藤原京の都はまだ続いていたが、この元明天皇の時、唐の長安にならって平城京が造営された。この都はそりゃ~素晴らしかった、小野(おのの)(おゆ)と云う歌人が『万葉集』に詠んでいる「あおによし奈良の都は咲く花のにおうがごとく 今さかりなり」と、兎に角すごかった。まず皇居がある、そこから縦に幅70㍍の道路が一直線、南北5㎞は朱雀(しゅじゃく)大路(おおじ)、大路をはさんで皇居と反対には羅生門、オセロか碁盤の目の様に道路が走っていた(そんな平城京は今では世界遺産) 。平城京への遷都に関しては、藤原鎌足 (大化改新の功労者)の息子、藤原不比(ふひ)()が中心になって働いたと云われる。『古事記』『風土記』『日本書紀』『万葉集』が出来たのも女帝が続いたこの時代 (奈良時代は天皇8代のうち、女性天皇が4代)
 然し、そんな華やいだ素晴らしい都とはうらはらに庶民の生活は悲惨であった。良民・賎民に分けられ自由がなく、さらにそのなかでも奴婢(ぬひ)と呼ばれた人達は売買の対象と云う酷い扱いを受けていた。それだけでなく、租庸調なる重税に苦しみ、じつはこの時代になっても東国の農民などはまだ竪穴住居の生活であったと云う。それだけではない、前記の防人制度はまだあり、北九州の防御の為兵隊に行かされる人達もいた。この時代の日本の外敵は朝鮮や中国が想定されていたから、北九州が防御の対象だった。防人はヒドイ、命がけの仕事なのに無報酬。それどころか、旅費・食事は自腹。防人は主に東国人が派遣されたので、飛行機も新幹線も無い時代、関東から九州迄行くことがどんなに大変だったか (現代人に判るかな) 。しかも防人に従事している時にも税は免除されない。実に酷い時代であった、先程紹介した『万葉集』にも防人の詠んだ歌がある。父母(ちちはは)頭掻(あたまか)()()くあれて()()言葉(けとば)(わす)れかねつる (お父さんお母さんが自分が旅立つ日に頭をなでて無事でいろよ元気でいって来いと云ってくれたことが忘れられないの意味) 」。また、こんな歌もある。(から)(ころも)(すそ)に取り付き泣く子らを()きてぞ()ぬや(おも)なしにして (自分の服にすがりついてお父さん行かないでと泣く子どもたちをおいて防人は出てしまったよ子どもたちは母もいないのに) 。切ないね、余りにもムゴイ悲しい歌だ、うぅ~泣けてくる……。
 表向きは華やかな平城京ではあったが、実際庶民の生活は悲惨そのものであった。では、貴族は楽しかったかと云えば、それがそうでもない。確かに農民の様に税に苦しむわけでなし、防人に行かされることもなし、竪穴住居で暮らす訳でもなかったが、貴族には貴族の辛さがあった。彼らにはドロドロの権力闘争があった。上司に逆らってクビになるのは、まだ良い方で一つ間違えれば処刑されたり、上司に逆らわなければ良いかと云えば、自分の上司が権力闘争に敗れれば、自分もその巻き添えになる事もあった。どちらにしても、判断を間違えると、クビか・左遷か・処刑であった。奴婢や農民に比べれば、ましだったかも知れないが決して楽な生活ではなかった。
 この様な状態では庶民は真面目に働く気にならない、したがって田んぼは荒れてくる。なにも楽しみがないから、喋喋(ちょうちょう)喃喃(なんなん)(あえて難解語を記した読者で判断を)は盛んになり、その結果、人口は増えてくるから口分田が不足した。朝廷は荒地を開墾する様に勧めるが、庶民はそんな無駄働きはしない。税金を納めるだけでも大変、開墾しても庶民には何のメリットもない、従って田んぼは増えない (当たり前だ) 。そこで朝廷は新しい「三世(さんぜ)一身(いっしん)の法」なる法律を作った。これは新しく田を切り開いた者には、褒美としてその田を三世代に限り (つまり自分の孫の代迄) 私有地にしてよいと云う法律であった (勿論、孫が死んだら国に取り上げられる) 。然し、鉄の農具もまともに無い時代、開墾に何年もかかる、三世代はアッと云う時代、当時の寿命は短いし、14~5歳で結婚して子供を生んだ時代、三世代なんてすぐに終わってしまう。要するに割に合わないから三世一身の法は効果がなかった。
 そこで今度朝廷は『(こん)(でん)永年(えいねん)私財法(しざいほう)』と云う法律を作った。開墾した土地は永遠に自分のものにしてよいと認めた。こうして大化改新以来の公地公民制が崩れかけ、貴族や寺院・地方豪族などの一部の力を持った者たちが、その辺を浮浪している農民を使って荒地を耕させて田として、自分のものにしていった。この土地を「初期荘園 (税はちゃんと払った) 」と云う。
 


◆都は、立派な平城京となったが、庶民の暮らしは厳しい。
◆貴族も権力闘争に明け暮れ、田畑は荒れ放題。
◆口分田も不足して、ついに朝廷は開墾地を増やす為に様々な政策
を出す。
◆しかし、災いが続き朝廷は仏教に縋る。
 


◆ 災いのとどめは大仏様
 この様な奈良時代に都では次々と異変が起こる。災害が起こるは、天然痘は流行るはなどで死人が街にあふれた。噂ではこれは長屋王の呪いだと流言が飛んだ。これは聖武天皇が藤原不比等の娘を妻にしたのが始まり。不比等は大化改新で活躍した中臣鎌足の息子、平城京の建設に活躍した人。不比等は聖武天皇の妻になった娘をどうしても皇后にしたかった。でも、不比等の娘は皇族ではないので皇后になれない。でも、させたいとゴリ押ししていた。それを猛反対したのが天皇の代りに政治をしていた長屋王であった。その時、天皇と不比等の娘の間に子どもが出来、天皇も不比等も大喜び、でもその子どもは1歳にならないうちに亡くなってしまった。この結果、不比等は「長屋王が呪い殺した」と騒ぎだし有る事・無い事を言いふらす。遂に長屋王はいたたまれず自殺した、これが『長屋王の変』である。
 反対する者がいなくなった不比等はとうとう娘を皇后 (光明皇后) にしてしまう、皇族でもないのに (権力さえあれば何でもあり) 。ところがその後、都に異変が起こり始め、災害・天然痘・おまけに不比等の兄弟4人 (光明皇后の兄達) も相次いで死亡。「これは長屋王の呪いだ~」と朝廷は大騒ぎ、挙げくの果て聖武天皇は遷都を何回も (平城京→恭仁京→難波京→紫香楽京→平城京) するが、結局元の平城京に戻る (だから実は奈良時代はずぅっーと平城京が都だったわけではない) が災いは治まらない。もう、神頼み・仏頼みしかないと聖武天皇は仏様の力で災いを振り払ってもらおうと考えた訳。各地に官立の寺や尼寺を建て、極めつけに都に東大寺を建立した。そしてその金堂 (大仏殿)廬舎那仏(るしゃなぶつ)を、これが今でも有名な大仏様である。完成当時は金メッキが施され、まばゆいばかりに輝いていたが、その後の源平合戦と戦国時代に二度焼かれてしまい、現在の大仏は江戸時代に再建されたものである。それでも現在は国宝に指定されている。
 国分寺や東大寺を見れば分かるが、この頃の建物は仏教や唐の影響が強い、遣唐使が伝えた唐の文化による。遣唐使は630年から894年迄264年も続いた。遣唐使と云えば阿倍仲麻呂始め空海・最澄などよく知られるが、何と云っても忘れられない人は唐の高僧『(がん)(じん)』である。日本の留学生の依頼を受けて日本に来る航海では大変な目に会う。嵐に会ったり、妨害に会ったり、苦労の連続でついに失明し、それでも10年後にやっと日本に到着した。そして鑑真は仏教だけでなく、建築や彫刻や薬の知識まで教えてくれた。
 この様に仏教色の強い唐より伝わった当時の文化を聖武天皇の頃の年号に因んで「天平文化」と呼ぶ。特徴は仏教色が強いだけでなく、唐の影響も強い。建築では何と云っても東大寺であり、現在でも大仏様式として、禅宗様式・和様様式とともに一大建築様式として知られる。また、天平文化としての歌集では、『万葉集』が知られる。防人の歌とか貧窮問答歌が書かれるすごい歌集で、なんと4500首の歌が収められる。他にも歌集はあるが、万葉集の特徴として天皇や貴族・僧侶以外の一般民衆の歌も収められており、これは世界でも例がない。当時の日本人が如何に言葉や歌を大切に考えていたか、それがよく分かる。それから、この頃に歴史書が書かれたのが『古事記』と『日本書紀』である。古事記は天武天皇の命令で太安万侶(おおのやすまろ)が編纂した。稗田阿礼(ひえだのあれ)と云う記憶力のすばらしい人がいて、その人が語った歴史を安万呂が文字に書いたと云う。一方、日本書記は天武天皇の命令で皇子の舎人(とねり)親王(しんのう)が中心となり編纂された書物である。歴史と云っても日本の歴史が書かれてはなく、天皇の歴史が書かれ、天皇の正当性を証明するために作られた書物である。この他、歴史とペアになるのは地理で、地理の書物としては『風土記(ふどき)』がある。各地方の文化や特産物、地方の神話などが書かれているが、今も完全に残っているのは『出雲風土記』のみで、あとは常陸(ひたち)(現・茨木県)播磨(はりま)(現・兵庫県)備後(びんご)(現・大分県)肥前(ひぜん)(現・佐賀県)の4つの風土記が不完全な形で残るのみである。

◆ 平安時代は平安ではなかった
 都はやがて一時長岡を経由して京都に遷都する。この時の天皇は桓武天皇だった。天皇は奈良から都を移して政治の再建を果たそうと決意していた。それは仏教の力が強くなりすぎて政治に口をはさむようになったり、(どう)(きょう)のような悪僧 (女帝にとりいって、自らが法王か天皇になろうとした) の件で、寺院勢力を抑える為に遷都を考えていた。
 天皇はまず水運のよい(やま)(しろ)(現・京都府の一部) 長岡に遷都するが、都市計画の途中、(ぞう)長岡宮(ながおかぐう)使()が暗殺され、天皇の弟の相良(さわら)親王(しんのう)に容疑がかかった。親王は冤罪(えんざい)(無実であるのに罪を着せられる・ぬれぎぬとも云う)を着せられ淡路島に流される途中、食を断ち餓死した。これにより桓武天皇は親王の怨霊(おんりょう)(恨みをいだいて祟りをなす霊)のためか悪夢にうなされたり、疫病などで社会不安が広まった。天皇はもう都はダメかなと云うときに、和気清麻呂のアドバイスで同じ山背国(現・京都市)に再遷都し平安京とした。この都は平城京と同じく唐の長安をモデルとして造られた。これ以来、平安京は明治2年まで1000年余りの都となった。このうち鎌倉幕府が開かれる迄の400年間は、ここが政治の中心となった。新しい都には奈良の僧の力が政治に及ぶことを恐れ、奈良の諸寺院を移すことを禁じ、新たに東寺・西寺が建立される (一方この頃、最澄・空海が遣唐使船で唐に入り、学んだ新しい仏教を日本に輸入する) 。天皇はここでいろいろと思いきった政策を実行していく、例えば今迄あった徴兵制を廃止した (天皇様は偉いなぁ、庶民には有りがたいなぁ) 。現在の平和憲法のできる実に千年以上前に画期的なことを実施した (ちなみに今でも世界で軍隊をもたない国は日本だけ) 。その変わりに地方役人の郡司の子供で、乗馬や武芸が上手い者を集めて軍隊を組織した。これで農民などの庶民は軍隊に行かなくてもOKとなる。他にも地方の役人である国司の不正インチキを取り締まる為の(かん)()由使(ゆし)なる役所を置いたりして、いろいろと政治をした。そのなかでも、平安京への遷都実施と並んで有名なのは坂上田村麻呂に命じた『蝦夷(えぞ)征伐』である。
 この時代、東北地方に朝廷に従わない蝦夷と呼ばれる集団がいた。彼らはいわゆる悪人ではなく単に京都にいる朝廷の支配下に置かれるのを嫌がっただけだった。桓武天皇は「このヤロウ、何故俺の云う事を聞かない」って事か。そこで、天皇は坂上田村麻呂を『征夷大将軍(蝦夷を征伐する大将軍の意味』なる位を授け、蝦夷を征伐した。これより後、征夷大将軍の名は武士の総領の意味になり、幕府の最高位の名称となっていく。
 なお、京都の清水寺は、始め行叡(ぎょうえい)なる僧が自らの修行の為建てた小堂だったが、蝦夷征伐より帰った田村麻呂が立派な本堂を寄進したことにより開山とされる。
 そしてこの頃古い仏教に対して新しい仏教が浸透してくる。それは唐より帰国した最澄・空海による『密教』であった。この教えは「本当の仏の悟りは言葉で表現できず体得しかない」と云う考え方であった。その教えを広める為に最澄は天台宗の元祖となり比叡山に延暦寺を建て、空海は真言宗の元祖となり高野山に金剛(こんごう)峯寺(ぶじ)を建てた。やがて最澄は伝教大師と呼ばれ、空海は弘法大師と呼ばれた。
 平安京に遷都して桓武天皇は新たな政策を打ち出し、坂上田村麻呂は武士の最初の統領となったこの時代も、やがて、天皇を差し置いた藤原氏の権力が増大し始め、天皇親政でなくて摂関政治 (摂政や関白が行う政治) へと変わる。桓武天皇が政治を行っている間に姿を薄めていた権力の亡者達が狙っていた、今迄これを読んでこられた方は覚えありますか?、藤原一族の不比等。自分の娘を皇后にして長屋王の変を起した人、この一族が権力を狙っていた。そのやり方が強欲(ごうよく)、自分の娘を天皇の奥さんにして、生まれた子供を天皇にして……、そうなると、自分は天皇のおじいさんとなる。おじいさんになると天皇も遠慮がちになる。それを良い事に政治に口出す様になる「俺は天皇の祖父だぞ、俺の云う事を聞け」となる。そうして調子づいた藤原氏は、摂政とか関白の位を獲得する。天皇が子供だったり、女子だったりすると摂政として政治を代りに行う。関白になれば天皇が成人後も代りに政治が行える、これでは天皇の出番はなく、藤原一族は皇族でもないのにやりたい放題 (やりたい放題の内容は律令制はなしくずしになり、数々の事件や政変、薬子の変,承和の変、応天門の変などあるが長文になるのでカット)
 その様な藤原一族の独占による政治の世の中にも助けの道は開かれ、現われてきたのが菅原道真である。道真は13歳と云う若い醍醐天皇を補佐する右大臣であった (左大臣は藤原時平) 。道真は学者の家に生まれ、学者として育ち右大臣にまで出世していた。藤原一族により摂関政治の続いていた時代、道真の提案で遣唐使が廃止されることになった。じつはこの時代、唐は国内で戦争が続き安心して学べる国ではなかった。その戦いのきっかけは世界三大美女の一人と云われた楊貴妃。時の玄宗皇帝はこの揚貴妃可愛さのあまりに揚一族に依怙贔屓(えこひいき)して、その結果が「安史(あんし)の乱」なる国内反乱がおき100年も続いた、そんなところで学べることが出来ない。それにもう一つ当時遣唐使船の航路は、北九州から朝鮮半島沿いに航行していた (最短距離は直線だがレーダーもない時代、陸の見えない航路は命懸け) 、その朝鮮と日本の関係はその頃よくなかった。だから海岸沿いの航路は困難だった。しかし、遣唐使船廃止が原因で今迄何をするにしても、中国様式だったが、遣唐使廃止で最先端の中国文化のマネが出来なくなった。だから日本独特の文化が出来てくる、中国のマネでなく日本のオリジナティ文化である。命懸けとは云え唐まで足を運べば、それ迄見た事のない優れた文化が入っていたので、自分で考えたりしないで文化を築くなど面倒であったが、遣唐使船に廃止により日本人自分たちの手で文化を育てることになる。『ひらかな・カタカナ』はこの頃にできた。漢字が書けなくてもひらがな・カタカナで何とかなるのはこの時代のおかげである。また『古今和歌集』が撰上されたのもこの頃、紫式部・清少納言が活躍し源氏物語や枕草子、紀貫之の土佐日記、かぐや姫で有名な竹取物語、和歌も発達し六歌仙のような歌人らも出現したのもこの頃。こうして生まれた文化を国風(こくふう)文化(ぶんか) (拙書・雑記帳歴史関係「平仮名が出来たのは」参照) と云う、数ある日本文化の中で外国の影響を受けない独特の文化が生まれたと云う点はとても大切なこと。菅原道真が遣唐使の廃止を提案したその結果、国風文化が生まれた、これは日本歴史上大切なこと、心に留めたい。道真はその後、藤原時平の讒言により大宰府に左遷され2年後その一生を終えた。
 話は国風文化に片寄ったが、平安中期も道真を政界から追い出した藤原氏は、天皇をお飾りにして権力の掌握が続いていた。そんな中、領地を守る為武士が現われ始める。
 本文の始めの項の平城京の実態欄で『懇田永年私財法』を記したが記憶にあれば有難い。「開墾した土地は自分のものにしてよい」の法律。しかし必死で開墾しても、強いヤツに奪われることもある。当時警察的な役所はあったが庶民の味方ではない。どうして土地を守るか考えて末、開墾した土地を藤原氏などの貴族や有名寺社に寄付することにした。つまり、貴族や寺社の荘園 (拙著・雑記帳歴史関係「荘園とは」参照) に入れてもらい、守ってもらうことにした。荘園なら税金はかからないし、農民は荘園の管理人として自分の土地を耕していけば良かった。勿論お礼として貴族や寺社に収穫の一部を年貢として納めた。それでも土地財産を奪う野党や盗賊はいたので、ほっておいたら土地も財産も家族の命も危ない、そこでガードマンを雇う必要が出てきた。もうお分かり、このガードマンが武士になる。
 武士は初め武装した農民だった。それがあちこちの武士が登場する様になると都落ちの元貴族や軍に所属していた人達も武士になっていく。一人で戦うよりも大勢で戦った方が有利なので組織を作る。これが武士団である。小さい武士団同志でいさかいがあると、勝った方は負けた方を吸収したりして、武士団は大きくなりやがて大きな武士団が形成される。とくに大きな武士団は、桓武天皇の血をひく平氏、そして清和天皇の血をひく源氏だった。
 やがてその武士団の一つの平将門(たいらのまさかど)藤原(ふじわらの)純友(すみとも)が乱を起して縄張り争いや天皇に反抗する、『(しょう)(へい)(てんけい)の乱』と云う。最終的には負けるが武士の強さが見直され、御所や都のガードマンとして活躍する様になる。時代は相変わらず藤原氏の時代、藤原氏が副社長なら (形だけの社長は天皇) 武士は契約している警備会社の社員みたいなもの。藤原氏の絶頂期、自分の娘を次から次へと天皇に嫁がせる。例えば定子(さだこ)と云うお后のいる一条天皇に無理やり彰子(しょうし)と云う娘を嫁がせたりする。話はそれるがこの定子には清少納言なる家庭教師おり、彰子には紫式部なる家庭教師がついていた。この二人な常にライバルであった (拙書・文史会会報第12号・面白歴史コラム参照) 。
 話をもとに戻して、この時代朝廷内はお互い勢力争いなどで疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)不穏(ふおん)になっていた。時はお釈迦様が亡くなって1500年、仏教で云う『末法思想』の時期に当っていた。「この世の終わり、暗黒時代がくる」と云う仏教の教えの時代になっていたので、貴族たちは大慌てして「何とかなる方法はないか」と、一心に探し研究していた、そして見つかった答えが『浄土教』の教えであった。はるか昔の阿弥陀様が「私が悟りを開いて仏になれたら、私を信じる者は全て、極楽浄土に行ける様にしてあげる」と、約束されていたことを見つけだした。これを知った貴族たちは安堵、阿弥陀様さえ信じていれば良いのだから (阿弥陀様の苦労もしらないで、案外単純なのネ) 。いつの時代も金持ちは気持ちを形にする、藤原道長の子の頼道は金と力にものを云わせ、平等院を建てた (10円玉でおなじみ、最近リホームされて創建当時が蘇った) 。他にも奥州藤原氏が建てた中尊寺金色堂もバリバリの浄土教の教えによる (金持ちはやることが違う)
 この様に浄土教の教えが仏教の立て直しになるかと思われていた頃、天皇は藤原氏排除の秘策を思いつく。横暴な藤原氏をヤッツケルと願っていたのは、他の貴族だけでなく時の御冷泉天皇もそうだった。藤原氏の娘である天皇の后に子供が生まれなかった。その次の天皇が御三条天皇でこの方が藤原氏が摂政や関白になっても口出しできない方法を考えられた。それが『院政』と云う機講、天皇になってもさっさと辞めて『上皇』や『法皇』になるシステム。分かりやすく云えば強い影響力をもった株主が、会社経営に口出ししたとする。すると、この株主に対等に物が云えるのは社長ぐらい、けれどもたとえ社長でも、この株主が義理の父親であればなかなか逆らえない。そこで、社長をさっさと辞めて、会長になると物が云える。会長は社長より力があるから。その会長にあたるのが上皇(出家して坊さんであれば法皇) 、そして『院』と云う場所で政治を始める。しかしこれを考えた御三条天皇は亡くなり実践できなかった。
  
 ◆領民の武装が集団になり、大きな武装集団となっていく。
 ◆武装集団は戦いのプロとなり、朝廷への反乱が起こる程になる。
 ◆そのうち、仏教が崩壊する末法思想が朝廷を震撼させ、そこへ
救世主のごとく現われた阿弥陀仏、平等院鳳凰堂・中尊寺金色堂
も浄土信仰の現われ。
◆天皇は藤原氏排除の秘策を思いつく。

その後、御三条天皇の息子の白河天皇は天皇の位を退いた後、上皇となり子の堀川天皇の代りに政治を行った。これが院政の始まり (幼稚園の運動会で、子供のかけっこをお父さんが代走する様なもの) 。その後も鳥羽・後白河の両上皇が、幼い天皇の代理として2030年もの間院政を行った。そして鳥羽法皇が亡くなると次の院政を行おうとした崇徳上皇は弟の後白河天皇と対立し戦いが始まる。これを『保元の乱』と云う。崇徳上皇側には藤原(ふじわらの)頼長(よりなが)源為義(みなもとのためよし) (源義朝の父)(たいらの)(ただ)(まさ)、一方、後白河天皇側には藤原(ふじわらの)忠道(ただみち)源義朝(みなもとのよしとも) (源為義の息子)平清盛(たいらのきよもり)と云った武士が結集。京の中で二つの陣営が激突!後白河側の一方的勝利となる。負けた崇徳上皇は讃岐 (うどんで有名な香川県) に流された。他の敗者の頼長は討ち死に、忠正・為義は六条河原で処刑、為義にいたっては命令とは云え勝った実の息子の義朝の手にかけられて処刑された (ヒド~イ話だ)
ここで崇徳上皇のことを一言…。戦いに敗れ淡路島に流された上皇は、その後穏やかに写経を始める。そうして完成したものを「いろいろあったがごめんな、朝廷の為に有難いお経を書き写したので、どうか納めてほしい」と京都に送るがっ…、何と送り返される。崇徳上皇は大激怒「反省して、敵であったお前たちのためにこんなことまでしてやったのに」と思ったのだろう。「俺はもうお前らを許さん」と自分の舌を噛み切り、流れた血でお経と呪いの言葉を書き込み、「わしはこれより日本国の大魔王になり天皇をずっと呪ってやるぞ、王が家来になって家来が王になる国にしてやる」と云い、爪だの髪だの髭だのを伸ばし続け壮絶な姿でなくなった。彼の呪いが本当に存在したかは別にして、朝廷は実際に上皇のことを恐れていた様だ。なんと明治になってから天皇がお参りしている。そんな怪談めいた上皇であったが、一面ロマンティストでもあり、百人一首で次の様な歌を残す「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」、 (岩によって、二つに引き裂かれてしまう滝川の水だけれど、一度引き裂かれた水も再び一つになる。そのように私とあなたも現世では結ばれなくても来世ではきっと結ばれる) と云う歌を詠んでいる。この歌は人気投票では常に上位にランクされている程有名。これだけ繊細な人だったから逆切れになると、怖い人 (魔王) になったのかも知れない。
さて、この保元の乱では源義朝(みなもとのよしとも) (頼朝の父) が、かなりの戦力になったので天皇のねぎらいがあるかと思ったが、なんとあまり働いてない平清盛の方が優遇された (清盛は白河法皇の子との説あり) 。従って清盛と義朝が激突し、清盛が勝利した。これを『平治の乱』と云い、この時義朝の子・頼朝も参加していたが、負け戦の為、伊豆に (オッ、伊豆の温泉楽しみ!ではない。当時は流刑地の一つ) 島流し。弟の今若・乙若 (後の義経) は母の常盤(ときわ)御前(ごぜん)と共に、御前の美しさにホの字となった清盛の命令で助けられ、乙若は鞍馬寺に預けられた。
清盛一門は武家の棟梁家として不動の地位を得る。更に驚きは清盛は武家で最初の太政大臣となったこと、警備の仕事からいきなり総理大臣になった様な飛び級的出世であった。貴族の牛車を警護するガードマン的仕事から、なんと太政大臣とは前代未聞!。こうなると平氏は娘たちを天皇や摂関家に嫁がせる様になり、婚姻関係が深まり平家と貴族の血がミックスカクテル状態になり、自分の一族をドシドシ朝廷の要職につけ「平家にあらずんば人にして人にあらず」とモノスゴイ言葉も出る。そればかりか大輪(おおわ)(だの)(とまり)(現・神戸兵庫港) を修築して、宋とも貿易を始め経済力もつける。然し、一ガードマンから太政大臣まで登り詰め調子に乗りすぎた清盛に天皇もだんだん嫌気がさしてきた。ついに後白河法皇は皇子の以仁王(もちひとおう)に「平家を倒せ」の命令を出す。以仁王は源頼政(みなもとのよりまさ)と共に諸国の源氏に平氏打倒を呼びかけ (現代であればメールの一斉発信か) たが、二人は宇治平等院で襲撃を受け亡くなる。頼政はなんとこの時77歳、当時としてはスーパー高齢者 (自分もまだまだ頑張らなければ、当時の平均寿命は50歳前後、但し貴族はもっと少なく33歳位) であった。然しこの以仁王と源頼政の行為は平家に反感をもっていた武士が次々と挙兵した。
一方、流刑地伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)はひょんなことから北条政子とホットな恋に落ちる。ところが政子の父・北条時政はこれに反対。頼朝なる流罪人に「うちの娘をニートなんかにやるわけにはいかん」と、二人は猛反対を受けるが結局目出度くゴールイン。ここに以仁王(もちひとおう)の一斉メールが飛んできて、2人の結婚に折れた北条時政に助けられ源頼朝は挙兵を決意した。
その上もう一人平家打倒に張り切っていたのが源(木曽)義仲、倶梨伽羅(くりから)(とうげ)などで戦況をあげたが、都での木曽の山奥から下りてきた荒くれ者たりばかりの義仲軍の振舞いが庶民の反感を買い、後白河法皇の怒りにより宇治川合戦で義経軍に敗れ殺される。
この様に各地で内乱が広がり頼朝を攻めようとした平氏の軍勢は駿河 (現・静岡県) の富士川の合戦で大敗北をする。水鳥が羽ばたいた音を源氏軍の攻撃と勘違いして敗走したとか (何たるメンタルの弱さ)
この大失態を知った清盛は源氏が挙兵した時には、福原 (現・神戸市内) に遷都したがすぐに平安京に戻し、平氏に敵対した東大寺・興福寺などを攻撃し、その時東大寺大仏殿が焼失した。この後、まもなく清盛が高熱を出し寝込んでしまう。清盛の身体に水をかけたら瞬間に蒸発したと語られている (本当かな) 。ついに清盛が高熱病で亡くなり清盛の遺言は、「葬式はしなくてよいから、自分の墓前に頼朝の首をたむけよ」とか。清盛亡きあと後白河法皇の院内政治が盛り返し、平家は都から追われ西国に向う (平家の都落ち)
都落ちした平家に代り法皇は源頼朝に上洛をうながし政治的パートナーのしょうとしたが、これを断り変わりに源義経を京都に向かわせる。義経は摂津一の谷(兵庫)・讃岐(香川)・更に壇ノ浦(山口)の戦いで平家軍を破り、ついに平家は滅んだ。
その後、義経は頼朝に出世を恨まれ、奥州平泉まで逃れ奥州藤原氏と戦いその一生を終えた。
驕れる平家も久しからず。かくして平家の天下も源氏により倒される。頼朝は初めて武士による幕府を開設することになり、天皇親政であった平安京時代は終わりを告げる。
桓武天皇により開かれた平安京も、十二単を身にまとい、百人一首にまとめられているような素敵な和歌を詠む。そんな優雅な貴族ばかりが印象にあるこの時代。けれども平安京時代はそんな単純なものでなく、麻の如く相乱れ、相争い決して平安な400年間ではなかった。

◆平安京に遷都して、桓武天皇は新たな政策を打ち出す。
◆征夷大将軍になった坂上田村麻呂は武士の最初の統領となる。
◆しかし、天皇を差し置き藤原氏の権力が、徐々増大し掌握が続
く。
◆菅原道真も左遷の憂き目にあう
◆そんな中、領地を守る為、武士が現われる。
 



◆ government of the busi by the busifor busi 
平家が滅び源氏が頭をもたげ、源頼朝が征夷大将軍となり武士による鎌倉幕府を開いた。そう、「武士が、武士による、武士のための政治」が始まった。
武士は、もともと土地を守る自警団よりきているので、土地を中心に家来は奉公した。頼朝の家来は御家人(ごけにん)と呼ばれ、幕府は御家人 (家来) に土地を間にはさんで御恩と奉公の関係で結ばれた。御恩と云うのは、幕府が御家人に土地を与えたり、その領地を守ったりすること、奉公と云うのはその代りに御家人が幕府の役人で働いたり、「いざ、鎌倉」と鎌倉に何か起こったときには命懸けで駈けつけることで、これが御恩と奉公とで結ばれた主従関係によるシステムを『封建制度』と云いギブアンドティクであった。
鎌倉幕府の組織は案外シンプルであった。組織のTOPが将軍の頼朝、NO2が『執権(しっけん)』北条時政がおり、その下に御家人を取り締まる『侍所(さむらいどころ)』があり、幕府の金を管理する『政所(まんどころ)』、それに裁判をする『門注所(もんちゅうじよ)』がある仕組みであった。
 また地方を治める為に国ごと (今で云えば都道府県) には御家人の責任者として『守護(しゅご)』を置き、荘園を管理する『地頭(じとう)』を設置したと、基本的にはこれだけであった。
 扨 幕府制度も無事作ることができて、めでたしめでたしなるところだが、源氏の天下は長く続かなかった。『吾妻鏡』によると頼朝は落馬して命を落としたと云う。武士がそう簡単に馬から落ちるのか、これはおかしいと暗殺説?も囁かれる (妻の政子に殺されたとのトンデモ説もあり
 幕府創設者の頼朝が亡くなり、後を継ぎ将軍となったのが息子の源頼家(みなもとのよりいえ)だった。ところがこの2代目が父に似ず、かなりのトラブルメーカーであった、頼家には次の様なエピソードが伝わる。
或る時、頼家は御家人の安達景(あだちかげ)(もり)の愛人に目をつける。そこで景盛に用事を云いつけ遠方に出し、その間に彼の愛人を誘拐して自分のものにする。そればかりか、景盛が帰ると彼を討とうとまでした。この事件が明るみになると頼家の求心力は一気に失墜した。この他、頼家の乳母の実家一族を贔屓にしたり、領土で御家人がもめている時、地図に線を引いて「ほい、ここからがお前の土地、でもってこちらがお前の土地、これで良いのだ」と分けていた。命より大事な土地をこんな裁きにすることに御家人たちは頭にきて (2代目のボンボンが、先代から仕事をしている社員に総スカンされたのと同じ) 、頼朝の妻政子の同意の上、修善寺に幽閉され、後に執権・北条時政に暗殺された。
 この後、将軍に就いたのが頼家の次男・(さね)(とも) (長男は暗殺されている) であった。この次男はすでに出家していて坊さんであったが、還俗(かんぞく) (僧籍にあった者が俗人に還ること) させられて、母・政子が幕府政治をサポートすることで、嫌々将軍にされた。兄が殺されていたから、余計に嫌だったと思われる。従って武士の統領って性格ではない。武士より和歌を作るのが好きだった、体育会系ではなく文科系の人物であった。個人的に歌集『金塊和(きんかいわ)歌集(かしゅう)(この歌集は今でも国語のテストに出るくらい有名) も出している。現代で云えば総理大臣が政治をやらないで自分の作った曲でCDを出した様なものである。従って御家人の評判は良くない、そんな人でも右大臣になった。そのお祝いに源氏の守り神である鶴岡八幡宮に参拝に行く。お参りを済ませて帰る時に、参道の大銀杏(昭和25年に強風で倒れた)の陰に隠れていた()(ぎょう) (後に処刑された・これも詳しく語ればドラマがある) に暗殺された。
 扨 こうなると将軍になる人がいない。ところがこの頃から着々と頭角を現しつつあったのが、北条政子の父で執権の時政だった。初代将軍の奥さんだった影響力の強い政子がまだ生きている。やがて執権の北条氏の全盛を迎えるが、将軍のいなくなった執権。将軍あっての執権なので将軍がいないと困るわけ。北条氏は家柄が良くないからだれも将軍として認めない。それで天皇の子供に将軍になってもらおうとしたが、後鳥羽上皇がNO(ノウ)と大反対。親政をしたい上皇にとって幕府は邪魔なだけ。
 そこで目をつけたのが藤原氏の一族、九条道家の四男を将軍に据えた、彼は何とこの時4歳であった。然し北条家にとっては政治を知らない子供がちょうど良かった、執権として何でも出来る。これで北条氏 (当時は義時) は安心だと思っていた時、前々から幕府の存在を苦々しく思っていた後鳥羽上皇が「北条義時を成敗せよ」と命令を出すと、もう幕府側は大慌て。多くの御家人は上皇側の味方になる鎌倉幕府が滅び、北条義時も謀反人として処罰されるのも時間の問題になったその時、陰では尼将軍と云われていた北条政子が大演説を御家人達の前で行う。「()最期(さいご)(ことば)なり。故右(こう)大将軍(だいしょうぐん)(ちょう)(てき)(せい)(ばつ)し、関東を草創(そうそう)してより以降(このかた)官位(かんい)()ひ、俸禄(ほうろく)と云ひ、()(おん)(すで)山岳(さんがく)よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し……」難しい何のことやらで、現代語で親しく云うと、
「これが、最後の言葉です。亡き頼朝様は鎌倉幕府をつくってから、無人島生活や1ヶ月1万円生活みたいな悲惨だったあなたたちに、位と給料を与えてくれました。その御恩はチョモランマよりも高く、マリアナ海峡よりも深いのです。なのに、今、京都の後鳥羽上皇が、変ないいがかりをつけてきたのです。院の近臣である藤原(ふじわらの)(ひで)(やす)にそそのかされてコロッと寝返った三浦(みうら)(たね)(よし)らを討ち取って、頼朝・頼家・実朝様 (即ち私の旦那と息子達) の事業をまっとうしなさい。
でもね……、京都の上皇とバトルなんて、こっちが負けたら相当な処罰を受けるからね。負けたらまた、無人島生活と1ヵ月1万円生活に逆戻りよ。覚悟しておかないとね。だから、鎌倉幕府株式会社から御家人を退職して、京都の公務員武士に転職したい人は、今ここで手をあげてください。いませんか~。あら、いないようね」 (吾妻鏡より) 。まぁ大体こんな感じで大演説をした、武士というのはどちらかと云うと体育会系で根は単純。こんな話を聞かされたら一気にその気になってしまう。「そうだそうだ!、俺たちは鎌倉を守るぞ!、自分達の領土をまもるぞ!、朝廷と戦うぞ!、おう!」と、こんな具合に手を挙げ燃えたに違いない。
戦い出すと1ヵ月で戦いのプロ集団である幕府軍が勝った。後鳥羽上皇の見込みが狂った戦いであった。上皇はその後、隠岐の島に島流しとなる。幕府は朝廷を監視する『六波羅探題(ろくはらたんだい) (幕府の出先機関・幕府の対警察機関) なる役所を京都に作った。これで幕府も暫らくは安泰し、承久の乱で命拾いした北条義時が亡くなり、子供の北条泰時が執権につき、武士の為に始めての法律を作った。『御成敗(ごせいばい)式目(しきもく) (武家社会限定の法律・日本最初の武家法。今迄の律令は貴族の為のもの) で武士が武士の為に作ったこの法律はその後、武士の法律の手本とされていく。
その後、北条氏の執権政治はゆるぐことなく続く。この間に時頼(ときより)の『梅鉢の木』のエピソードがあり謡曲にもなっているが、長くなるのでカット。
しかしここで平穏な政治を打ち破る出来ごとが起きる『元寇(げんこう)』が襲ってくることになる。モンゴル帝国のフビライハンが朝鮮半島の高麗を征服して日本に攻め込んでくる。この頃、モンゴル帝国の王ジンギスハン(ジンギスカンでお馴染み)の孫フビライは、都を大都 (現在の北京) に移し、国号を(げん)としていた。ベネチュアの商人マルコポーロ (東方見聞録でお馴染み) が、元に滞在しフビライに黄金の島ジパングについてよく話していた。「その国の王宮は黄金の屋根が葺いてあり、部屋の床も純金が敷き詰められ、窓も黄金つくり」とか、このジパングとは日本の事 (当時のそんな建物は奥州中尊寺の金色堂ぐらい) 。元はそんな日本をターゲットにしたのか、フビライは日本に対し 朝貢(ちょうこう) (外国から使者が来て貢物を差し出す事) を促す国書を高麗を通して大宰府(当時の幕府即ち政府の出先機関)に持って来た。その国書を執権北条(ほうじょう)時宗(ときむね) (当時18歳) を通して京の朝廷にも届けられた。国書の内容は、「上天(じょうてん)(けん)(めい)せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に(たてまつ)る。(ちん)(おも)ふに、(いにしえ)より小国の君は境土相摂(あいせっ)すれば、()(こう)(しん)(しゅう)(ぼく)(つと)む、(いわ)んや我が祖宗、天の(めい)(めい)を受け、()()(えん)(ゆう)す……」、アアッ難しい!、現代人の言葉にすると、「私はフビライ。エビフライではないぞ。その私が書簡を日本国王にさしあげよう。私が思うに、昔から小国の君主は国境を接していれば友好につとめていた…日本は高麗に近く、ときどき中国とも通交してきた。でも、気になるんだ。私フビライの治世には、日本は一度も使いをよこしていない。だから、日本の王がそれを知らないかと心配になって、あえてこちらから使いを遣わしているのだ。今後は互いに訪問することで、友好を結んで親睦を深めようではないか。聖人は世界全体をひとつの家とするものだからな。互いによしみを通じなくては、どうしてひとつの家だといえようか。誰が好んで軍事力を用いたいと思うものだろうか。日本の王はこのことをよく考えよ」と。
何度か使者が送られるが日本は拒否、最後にはこの使者を切り捨てた。怒り心頭に達したフビライは「もう容赦しない、攻め込め!」と命じ、元と高麗の九百余(そう) (約3万人) が襲来してきて戦いとなる。いざ戦ってみると幕府軍は大苦戦、元寇軍は集団戦法、こちら幕府軍は当時日本武士の戦いは一騎打ちが主流だった。軍勢の中から一人が前に出て、おもむろに名乗りをあげる。「やあやあ、遠うからん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは、なんたらかんたらの息子で、なんたらかんたらの位についている、なんたらかんたらなるぞ。わしの先祖は昔どこそこの場所で、なんたらの戦いで、これこれの手柄を立て、かれかれの領地を授かった偉い人なのだ。そちらに誰か、わしとつり合う身分の者がいれば、いざ尋常に勝負」とこんな具合、これでは集団で襲って来る敵には勝てない。これ以外に敵は「てつはう」なる火薬で攻められ苦戦するが、ここで奇跡が起き神風なる台風が吹き元寇軍の船は沈められ、幕府軍の勝利となる。
それより7年後にまた元寇軍に攻められるが、この時も神風?が吹き助けられた。これらの戦いを『文永の役』『弘安の役』と云う。
やっと元寇との国難が去ったのは良かったが、幕府はここでが弱る問題が生じた。戦いには勝ったが、御家人に与える褒章(ほうしょう)が無かった。勿論土地のことだが、今迄は戦いに負けた方の土地を褒章として与えていたが、今度の戦いは外国相手では如何とも仕方ない。「だから我慢してくれ」とも云えない。何故か、御家人達は、戦争にかかった費用を全て自前で(まかな)っていたのである。旅費も食費も日当も全て自腹。「タダ働きか、どうしてくれるんだ」「借金までして参加したのに…」と、幕府への不満の嵐。実際借金して参加した御家人も多かった。褒章がないので当然のこと生活が苦しくなる。そこで幕府は「借りた金は返さなくても良い」と云う『徳政令』なる法律を作った。御家人が質入れや売却した土地などは、もとの持ち主に無償で返す法律であった (車を買い取ったのに、もとの持ち主がす~と運転して持って帰る様なもの) 。喜んだのは御家人だが貸し主は吃驚、「ようし~覚えていろよ、今度借りに来ても絶対貸さない」となる。日々の生活を借金しながら生活していた御家人は借金も出来なくなり、経済混乱は進み生活は困窮、幕府に対する御家人の怒りはもう爆発寸前。そろそろ鎌倉幕府のカウントダウンが見え始める。
『武士の、武士による、武士のための政治』の鎌倉時代で元寇の戦いなど大変な時ではあったが、一方、武士の時代にふさわしく素朴で力強い鎌倉文化の時代でもあった。文学では新古今和歌集・小倉百人一首・方丈記・徒然草・平家物語・源平盛衰記など。建築では武家造り様式や東大寺南大門・円覚寺舎利殿・三十三間堂が有名、彫刻においては運慶・快慶の金剛力士像が有名である。また、鎌倉新仏教では浄土宗系では浄土宗の法然・浄土真宗では親鸞・時宗では一遍、禅宗では臨済宗の栄西・曹洞宗は道元。法華経では日蓮が輩出し、日本の仏教界の宗教改革の時代とも云えた。

◆ 一天二帝の時代
 鎌倉時代も終わりになる頃天皇一族が分離しようとしていた、御嵯峨天皇の時である。天皇は長男を後深草天皇として皇位を譲り、自らは上皇として院政を始めた。後深草天皇は皇位を譲られたのは良いが、生活がだらしなく身体が弱かった。御嵯峨上皇は実は次男の亀山皇子が可愛くて「亀山も天皇にしよう」とした (会社の2代目の長男を差し置いて、次男にすることも良くあること) 。御嵯峨天皇は将来の皇位を後深草天皇か亀山天皇かを、はっきり決めずに亡くなられた。こうなるとそりゃぁ、もめてあとが大変、お決まりの皇位争いとなる。後深草天皇系の『持明院統』と亀山天皇系の『大覚寺統』に分かれてしまった。この仲裁に入った幕府が両統でバトンタッチ制を提案し、先ず大覚寺統から後醍醐天皇が即位した。しかし、この天皇は自ら学んでいた「全てには上下関係がある」と云うルールの朱子学の影響で、天皇は上で武士は下なる考えをもっていた。思い返せば大化改新以来、天皇がトップであったが、幼少の天皇を藤原氏が補佐したり、上皇が院政しているうちに、いつのまにか武家政権へと移行し、天皇がパッとしなくなっていた。つまり、天皇中心の政治を復活させようとした。この思いの行きつくところは「倒幕」しかない。後醍醐天皇は密かに倒幕の計画をたてたが、幕府にバレテ隠岐の島に島流しとなる。その後は息子の護良(もりなが)親王(しんのう)が頑張り吉野より「幕府を倒せ」と号令を出す。親王の味方の楠正成が千早城に立て籠り幕府軍と戦う。そんな、ゴタゴタのなか後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し船上山にたて籠った。幕府は天皇を討つために、名越高家と足利高氏(後の尊氏)を大将にして攻撃さすが、この戦いの最中に高家が戦死し、その上、足利高氏が天皇側に寝返った。幕府は「えっ、ウソ、高氏さん、話が違う」と大慌てするが、六波羅探題も攻められ、鎌倉の幕府そのものも新田義貞に攻められ、執権の北条高時は自害し、部下の1153人も集団自決し約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。
 喜んだ後醍醐天皇は昔みたいに天皇が自ら政治を行う親政を始める即ち『建武の新政』である。この時足利高氏は功績を評価され天皇の名「(たか)(はる)」の一字を賜り「(たか)(うじ)」と改名した。しかし、この天皇の親政は朱子学を生かした皇族・公家を重んじた改革で、武士の実力をいかす仕組みがなかった。そのため早くも政治への不満を多く生み出し武士の反感を呼ぶ。
 その様な時に、建武の新政に不満をもつ武士たちは足利尊氏のもとに集まってきた。足利尊氏はついに後醍醐天皇に叛き反乱をおこした。後醍醐天皇は新田義貞や楠正成、北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)らの力で足利尊氏軍を一度は打ち破った。だが、足利尊氏が九州で武士を集め、攻めよせてくると (この時、湊川合戦あり) 、後醍醐天皇は京都を奪われ、吉野に逃れる。
その後、足利尊氏は新たに京都に光明天皇をたてた (尊氏を征夷大将軍に任命してくれた天皇) 。その為、京都に光明天皇の朝廷と吉野に後醍醐天皇の朝廷が出来ることになった。京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝と呼んだ。
尊氏は征夷大将軍に任命され室町幕府を開く。幕府は鎌倉幕府と似たようなもので、将軍がいて、執権の代りに「管領」の役職があり、地方には武士を統括する「守護」があった。中央でゴタゴタしている間に、この守護も力をつけ、「守護大名」と呼ばれるようになっていた。室町幕府もまだまだ力が弱かったので、守護大名と連合体の様な組織であった。そして守護大名達は自分の都合で持明院統(北朝)や大覚寺統(南朝)を勝手に応援する様になっていた。
南朝は後醍醐天皇の死後、後村上天皇が後を継ぎ、その後、長慶天皇と続く。だが、新田義貞や楠正成、北畠(きたばたけ)親房(ちかふさ)顕家(あきいえ)の父)など有力な武将を失い衰えていった。一方、北朝は足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の天皇が相継ぐことになる。このように両朝廷も天皇即位が相次ぎ一天二帝(天は一つだが皇帝はダブルの意味)の時代は続いた。だが、3代将軍足利(あしかが)(よし)(みつ)が北朝の勢力を背景にして南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻ることを勧めた。京都の戻った後亀山天皇は後小松天皇に天皇の位を譲った。これにより、60年余の南北朝の争いは治まり、まとめられることになった。この間の歴代将軍のなかでも3代将軍の義満はなかなかのヤリ手であった。南北朝の統一を成功させただけでなく、中国の明王朝と貿易を始め室町幕府を潤させ、儲けた金で自らの邸宅(別荘)も建てた(義満は将軍になるより企業家か商人になればよかったかも) 。それがいまの豪華(ごうか)絢爛(けんらん)の金閣 (今は世界文化遺産・応仁の乱で周囲の建物が焼け、戦後放火により焼失。現在のは再建) である。
 


◆朝廷が二つに分かれてしまった。交代で天皇になる時代となる。
◆順番が来た後醍醐天皇は、天皇交代制も鎌倉幕府も嫌いだった。
◆ついに、天皇は幕府を倒し親政を始めるが、大誤算。
◆足利幕府の開設。足利義満の絶頂期がくる。

(なれ)しるや都は野辺の夕雲(ゆうひ)(ばり)あがるを見ても落つる涙は” 応仁の乱
 足利義満が51歳で急死して、義持(よしもち)から義量(よしかず)へと続き6代目が義教(よしのり)であった。彼は僧籍にあったが還俗して将軍となった。なかなか凄腕の将軍で官僚に仕切られていた政治の実権を取り戻したり、九州を平定したり、貿易を再開したり、将軍直属の軍隊を組織したり、政治に口出しする公家でも寺でも容赦しなかったり、何と信長より早く、比叡山の焼き打ちをしている。この様な強引の義教だから敵も多く、守護大名の赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)に暗殺された。ともあれ、地味なイメージのある室町時代でさらに地味な足利将軍であるが、こんなスゴイヤツがいたことは知っておいても損はない。
 扨 義教のあとはわずか9歳の(よし)(かつ)が継いだ。こんな少年では満足な政治が出来る筈もなく、しかも2年のちに死んでしまう。義勝には当然息子はいなかった、そこで義教の弟の義政が8代将軍となる。この義政は尊氏・義満とともに室町時代を語るに絶対外せない人物。義満がスゴイ男ならこの義政は最高の将軍、但し最高の「ダメ」将軍であった。まずこの義政は、とんでもない年上女好きであった。自分の乳母(要するに母親代り)を愛した。おばさん、いや、お婆さんでないとダメであった。妻の日野富子には全く興味がない。これでは後継ぎが生まれない。そこで僧籍に入っていた義教の子・(よし)(ひろ)に武士に戻らせ、(よし)()と名乗らせ後継ぎにしょうとした。義尋としては「えっ、俺が、なんで」、「義政と富子の間に子供が産まれたらどうする? まずいではないか そうなると下手をすると命が危ない」と腰が引けたに違いない。それでも幕府の実力者の細川勝元を後見人にすることにより納得させた。ところが、翌年富子が義政の子・(よし)(ひさ)を産む。「えっ、お前は熟女が好きでなかったの」と驚いても後の祭、さあ大変、義政の後を義視が継ぐのか、実の息子義尚が継ぐのか。後はお決まりの後継ぎ争い、富子と山名宗全は義尚VS細川勝元と義視.これに他の守護大名の勢力争いも加わり戦いになる。敵味方入れ替わったりしてもう泥沼状態。これが応仁の乱で11年も続いた (摂州・池田氏もこれに巻き込まれる) 。それに主戦場が京都である為、建物・書物・絵画等々多くの文化財が灰になり、誰が詠んだか『汝しるや都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は』。結果残ったのは焼け野原の都。しかし将軍義政は相変わらず政治に無関心、餓死者が賀茂川の流れを止める程の飢饉もあり、応仁の乱がありで庶民は大変だったが、義政は「(しか)レドモ(ただ)天下(てんか)(やぶ)レバ(やぶ)レヨ 世間(せけん)(ほろ)ボバ(ほろび)ヨ」(応仁記より)と、つまり、「世の中が滅んだって、まあ、いいじゃない~」と云う状態。そして義満の真似をして東山に銀閣なる別邸を建てた。富子とは将軍後継ぎ問題で不仲だったので、逃げる様にこの東山に移って「ああ幸せ~」と隠居状態。義政は将軍としては究極のダメ将軍であったが、趣味のセンスは超一流で銀閣は金閣のように華やかではないが、落ち着きのある書院造りで、畳・障子に襖・床の間に庭など現代につながる日本建築のパターンが出来上がった。これらはアーチスト的将軍義政のおかげと云え、以後の日本家屋に大きな影響を与え、これらが作る落ち着いたたたずまいは美学なる学問の対象にさえなって、東山文化の代表的建築物になっている (自分も金閣よりこちらに興味が湧く)
 でも、将軍がこれでは室町幕府の力は弱くなる一方である。幕府の云う事を聞かず、地方の守護大名は勝手な事をする様になる。義教(よしのり)の強引な政治があり、義政のふがいない政治がある。なんと足利義政は後継ぎも決めずに仏門に入ってしまう。権力の亡者による跡目争いは、京都を灰にしてしまい、やがて幕府の云う事など聞かない戦国武将の誕生となる。
 戦国武将の項に入る前に話はそれるが室町文化について一言。この時代には義政の銀閣は東山文化としてもそうである様に、室町文化の栄えた時期であった。まず華道や茶道が発生し、わび・さびが重んじられ、(のう)、能楽とも云うが能面をつけて役者が演じる劇で、能自体はすでに存在していたが、芸術の一分野として認められる様になったのは、この時代の観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)親子の貢献によるものであった。次に狂言。実は能も狂言も同じ猿楽なる演劇から生まれたが、能が神秘的に対して狂言は少し滑稽でユニークな演劇である。それから連歌も室町時代に盛んとなる (池田の池田氏も連歌に親しんだことは有名) 。ここで云う歌とは和歌のことで、知識人などが寺社などに集まり上の句と下の句を交互に詠み合う遊びである。さらに「浦島太郎」や「鉢かつぎ姫」や「一寸法師」などおとぎ話も盛んとなり「御伽草子(おとぎぞうし)」と呼ばれた。また、とんちで有名な一休宗(いっきゅうそう)(じゅん)、絵画では中国と禅の影響を受けた水墨画が盛んになった。黒一色の墨で絵を描くもので、水墨画の世界では雪舟なる天才が登場している。彼の有名さについては、幼い頃、お寺に預けられていた雪舟は絵ばかり描いていて、お経を読もうとしない。そこで和尚さんに罰として蔵の柱に縛りつけられてしまった。悲しさに涙を流した雪舟はその涙を使って足でネズミの絵を描いたと云う。その絵の見事さに雪舟は縄を解かれたとか。ほんとか嘘かはわからないが、そんなエピソードが残る程文化人が出た時代であった。また、民間信仰として大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七福神が登場したのもこの頃であった。

 ◆足利義教の強引な政治。義政の不甲斐ない政治が始まる。
 ◆義政、後継ぎ決めずに仏門へ、跡目争いは京都を灰にする。
 


◆ いよいよ群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)強い者勝ち)の時代へ
 日本の歴史で女性人気ナンバーワンは平安時代とすると、男性ナンバーワンは英雄たちが合戦を繰り広げるこの戦国から安土桃山時代である。応仁の乱のあと、勢力を失った幕府に代り地方の戦国大名達が政治を繰り広げる。これは実は明治維新迄の長きに渡った地方分権の始まりであった。信玄や謙信の時代を経て信長・秀吉・家康の天下統一までの相次ぐ戦いは、壮大なスケールの合戦として登場する。
 応仁の乱は地方にも広がり、幕府の機能も権力も地方は放っておかれたので役立たず、「もう、幕府には任せられない、自分の領土は自分で守らねば」と、それ迄守護は中央にいて、守護代や家来が領土を管理していたが、守護達は急いで自分の領地に帰った。中には、守護代や家来が身分や上下関係を無視して領主になる者も出て来だした。「こんな混乱した時代に、習慣や身分は関係ない、実力で出世してやる!」と、こんな考えが台頭してくる、これが『下剋上(げこくじょう)』。
 例えば織田信長。信長の家は斯波(しば)(うじ)と云う守護大名の家来で守護代だった織田(おだ)大和(やまと)(のかみ)の分家の家来であった。守護の家来の家来と云うのが信長の家柄。けれども実力で本家の織田氏も守護大名の斯波氏を倒し尾張の領主になっている。
 こんなことが各地で起こる。駿河の今川氏や甲斐の武田氏の様に守護大名が、領主の地位を守ったところもあるが、この頃は地位や身分は何の役にもたたない。油断すれば実力の家来がのし上がってくる時代、そして戦国大名なる大名が各地に出てくる。戦国大名と守護大名はどこが違うかと云うと、まず、室町幕府の将軍に対する態度である。守護大名は一応、将軍と主従関係にあるが、戦国大名は将軍から独立している (将軍をバカにしている) 関係。また、守護大名は荘園に依存しているが、戦国大名は荘園を分捕り自分のものにしている。戦国大名は幕府なんか全然あてにしてない。自分の領土だけで通用する法律を作ったり、他の戦国大名から領土を守ったりした。「スキあらば他の領土も奪おう」の考えの大名ばかりだったからである。力のない戦国大名は力のある大名の仲間に入れてもらうか、領土を奪い取られるからである。小さい大名は淘太されて、実力のある戦国大名だけが生き残る『群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)』の時代である。上杉(うえすぎ)(けん)(しん)武田(たけだ)(しん)(げん)今川(いまがわ)義元(よしもと)斉藤(さいとう)道三(どうさん)織田(おだ)信長(のぶなが)毛利元就(もうりもとなり)島津(しまず)(たか)(ひさ)・・・・・etc。
 彼ら戦国大名達は城を築き、周りに町(城下町)を造った。城は初めは攻めにくいと云う事で山の上に築いたが、頻繁に戦いがあると手狭で不便で交通の便も悪いし機動力も落ちるので、平城と云って平地に城が築かれた。
 またこの頃、薩摩の種子島にポルトガル人により鉄砲が伝わり、日本人は数年でこの技術をものにし、自分達で生産できる様にした。近江の国友・日野・紀州の根来(ねごろ)和泉(いずみ)の堺などの鍛冶職人により生産され、数十年後には世界で一・二を争う鉄砲保有国になったのである。
 そしてこの頃の特徴として、鉄砲伝来より6年後に薩摩にフランシスコザビエル宣教師がやってきてキリスト教を日本に伝える。ザビエルがこの日本に来たには訳があり、ザビエルの来日から(さかのぼ)ること32年、ヨーロッパでそれまでのキリスト教の中心だったローマカトリック教会が一人の男から激しい攻撃を受けていた。その頃カトリックでは免罪(めんざい)()なるお札をお金と引き換えに発行していた。これを手に入れれば罪が免れると云うもの。もちろんイエスキリストはそんなものの存在は認めていないし、聖書にもそんなことは書いていない。権威をもったカトリック教会がお金を稼ぐために考えた手法だった。それに対してドイツ人のマルチンルターが「それはおかしいではないか」と云いだした。これが『宗教改革』であり、この運動は欧州全土に波及する。フランスでもでも同じような運動が始まり、プロテスタントと呼ばれる新しいキリスト教を開始した。それでカトリックが押されぎみになり、当時の最大のカトリック国であったスペインでは教団 (イエズス会) を組織して、まだキリスト教が普及されてないアジアなどに宣教師を派遣した。それでザビエルが日本にやってきたのである。キリスト教の宣教師としてはザビエルの他、ルイスフロイスも有名で彼はポルトガル人であるが、信長との交流を描いた『日本史』と云う本を書いている。
 話を元に戻し、戦国時代はまだまだ続く。川中島合戦・(おけ)狭間(はざま)合戦・久米田(くめだ)合戦・月山(つきやま)富田(とんだ)合戦 (山中鹿之助) ・信長の上洛戦 (摂州・池田城も巻き込まれる) ・姉川合戦・野田福島合戦・石山合戦・比叡山焼き討ち・長篠合戦・備中(びっちゅう)高松城水攻め等々時代は上下するが挙げればきりなし。
 この様な群雄割拠の時代もようやく織田信長の登場で終結に向かう。斯波氏の家来であった織田家を統一し、ついで尾張を統一した。尾張が自分のものと思った時、駿河の今川義元が京都の将軍に挨拶に行こうとした。単なる挨拶ではなく、将軍の後ろ盾になりたい挨拶であった。力の無い幕府だから将軍も喜ぶ、そうなると、将軍の代行として全国の大名の命令が出来る。この様な訳でどの大名も上洛したがったが、だが戦国の時代、他の戦国大名の土地を通らなければならない。「どうぞ、お通り下さい」と通れるわけではない、戦いながら京都に向うしかない。従って今川義元は25000人もの軍隊を率いて上洛しょうとした。しかし、この上洛はどうしても尾張を通らなければならない。これを信長は嫌った、そして2000人程の兵隊で迎え撃つことにした。25000人対2000人誰が見ても決着は明らか、然し何事もやってみないと分からない。桶狭間で休憩していた今川軍を折からの雨に乗じて奇襲、今川軍を打ち破り、義元の首をとる。2000人が25000人に勝った、幕下力士が横綱に勝ったようなもの、これで信長も一躍有名人。この後、信長は岐阜を拠点にして楽市楽座を開き、頼ってきた足利義昭を共に上洛して15代将軍とするが、義昭は自らの意も儘にならない信長を各地の戦国大名に「信長を討て」の命令を出す。これに応えたのが武田信玄・朝倉義景(あさくらよしかげ)・石山本願寺・比叡山延暦寺などで、これで信長包囲網が出来上がった。
 話は横に逸れるが、将軍が寺にも応援を求めるとは?、当時はこれらの大きな寺の僧たちは武装して(僧兵)大名並みの力があった。単にお経を唱えているだけではなかった。坊主なのに酒は飲むし、女遊びはするし、殺し合いの戦いもした。
 話を戻して、信長も包囲はされたが後には戻れない。10倍以上の今川軍に勝った信長は、先ず朝倉に協力した浅井長政 (信長の妹・お市の旦那)小谷(おたり)(じょう)を攻め、浅井・朝倉の連合軍と織田・徳川軍の連合で『姉川の合戦』で勝つ。負けた朝倉軍の一部が逃げ込んだ比叡山延暦寺を焼き打ち。続いて武田軍との戦いに挑む前に信玄が急病死した。この後、足利義昭を京都より追放して室町幕府は滅亡した。翌年は伊勢長嶋の一向一揆を鎮圧、さらに武田家との最後の戦い信玄の息子勝頼(かつより)軍と戦い、3000丁の鉄砲で不敗の武田騎馬隊を殲滅(せんめつ)し、本願寺顕如(けんにょ)の石山本願寺 (大坂) を屈服させて天下統一はもう目の前、敵のいなくなった信長は安土城を築いた。
 ところが天正12(1582)信長は家臣であった明智光秀の謀反により京の本能寺で滞在中に奇襲をかけられ自刃した(本能寺の変)49歳であった。
 信長が本能寺で亡くなった時、秀吉は中国の毛利軍と戦っていた。この人はもともと百姓の出であった。実力で出世したと云われる戦国大名は殆どが武士の子供で、ある意味、出世の糸口をもって生まれたもの。ところがこの人はスゴイ。彼は正真正銘の百姓のせがれ、そこから天下人になったので、日本史上最高の出世をとげた人物と云える。織田信長株式会社に入社して雑用係からのスタートである。ところがあれよあれよと云う間に機転と手腕を社長の信長に認められ、信長の一武将として近江長浜の一国を与えられる、雑用係が支店長になったようなもの。この時、信長の武将、丹羽長秀と柴田勝家の名から一字づつ貰い、木下藤一郎から羽柴秀吉へと改名した。
 信長が藤一郎に対しての信用度は信長が浅井長政に裏切られて逃げ帰った時も「しんがり」を務めた程、このしんがり役は難しく追撃してくる敵と戦いながら、本体の信長をうまく逃がさなければならない役目。敵に負けてもいけない、でも、サッサと逃げるわけにもいかない。この様な実績の積み重ねで、秀吉は中国の担当責任者となる、立派な中国戦略担当重役である。その中国の高松城水攻めの時、信長の死の連絡が入る。秀吉は高松城主の切腹で和解し、信長仇討のため兵隊を引き返す (これを「中国の大返し」と云う・甲冑着込んで鉄砲担いで約10日間で200㌔走る) 。そして明智光秀との戦いが『山崎の合戦』である。この合戦で主君の仇を討った秀吉は織田家内でも発言力がグンと増した、会社を乗っ取ろうとした者を追い出した功労者である。そこで、信長の後継ぎ問題が起きる。いろいろ画策の上、信長の長男信忠 (本能寺の変で戦死) の子・三法師が発言力の増した秀吉により後継ぎになり、秀吉がチヤッカリその後見人となる。これに怒った柴田勝家と『賤ヶ岳の合戦』となり、秀吉の勝利となる。この時、秀吉は勝家の居城である北の庄城まで追い詰め、勝家は自分の妻で信長の妹のお市と共に自害した。このお市に『茶々・初・小督』なる3人の娘が居り、後の歴史に色んな形で携わってくる。
 この後、徳川家康との間で『小牧・長久手の戦い』があるが、これは仲直りして、いよいよ秀吉の独断場。天下統一に向けて走り出すが、百姓出身である為、武士の統領である征夷大将軍にはなれない。そこで関白の近衛前(このえさき)(ひさ)の養子となり、うまく「関白」になれた。朝廷から「豊臣」の姓を賜り、「豊臣秀吉」の誕生となる。織田株式会社の雑用係が、豊臣株式会社なる大会社の社長にまでなる (納得出来ない大名もいたが、応仁の乱以来から続く戦いに誰も辟易していたから、「まあ~いいかぁ」と云う感じ) 。最後は、四国・九州そして東北の伊達政宗も服従させ、北条氏を滅ぼし天下統一となる。
 戦いに明け暮れた秀吉は一向一揆や比叡山での経験に「百姓や僧侶に武器を持たせてはいかん!」と百姓・町人・寺社から鉄砲・刀など武器を全部取り上げた 刀狩令(かたながりれい) 。それ迄は普段は農業している人が武士に変身する時代だったが、これにより兵農分離が進み、身分統制令 (農民はずっと農民、武士はずっと武士なんだぞと云う法律) と合わせて身分の固定ができ、これが(のち)の江戸時代の士農工商と云う身分制度につながる。また、刀狩令に合わせて太閤検地も行った。検地といっても面積を計るだけでなく、土地の生産力を調べることでもあった。
 まず、1反の土地からどれだけの米が収穫できるかをチェック。この1反あたりの標準収獲高を(こく)(もり)と云い、これに、その土地全体の面積をかけると石高(こくだか)が算出される。わざわざ土地の米を全部刈り取らなくても、「石盛×面積=石高」の計算式で米の生産力が分かってしまう。検地帖には石高だけでなく、その田畑と屋敷の所持者を記録した。これは、ずっと続いていた荘園には、複雑な土地の所有関係があった。「即ち、荘園領主→荘官(国人)名主(みょうしゅ)(地侍層)→作人」である。ポテトチップスのひと袋を数人で食べている様なもので、これでは権利の重なり合いがあり、土地の所有者がはっきりしない。ところが太閤検地により一地一作人の原則がおかれ、権利の重なり合いが解消され領主(大名)→作人(本百姓)と云うシンプルな形となる。こうして、荘園制は完全に消滅し、領主が村を単に土地と農民を直接支配制度が出来て、江戸時代までこれが続く (刀狩令と太閤検地の件、文章未熟でチョツト分かり難いかな御免蒙る。然し秀吉が作った制度が原因で江戸幕府のシステムがあり、これは大切なこと) 。他に物差しや枡の規格も統一している。
 織田信長もなし得なかった天下統一を遂に実現し、庶民もこれで平和が来たと喜んだが、それも束の間、秀吉は日本統一だけで満足出来なく、「アジア征服」を目指し朝鮮に2度出兵した、これを『文禄の役・慶長の役』と云う。この朝鮮出兵は秀吉の死 (露と落ち露と消えにし我が身かな 難波のことは夢のまた夢 ・ 秀吉辞世の句) により幕を閉じた。次の大物は徳川家康。
 思わぬ形で天下が転がり込んだ秀吉。敵対する柴田勝家を破り家康を抑え、関白になり九州・東北を平定、北条を攻め滅ぼし天下を掴む。戦いも終わり、ほっとしたのも束の間、朝鮮に攻め込むが志の半ばで露と消える。そして、徳川家康が、虎視眈眈(こしたんたん)と天下を狙い始める。先ず手始めは関が原の合戦。
 秀吉の死後、その子の秀頼は幼かったこともあり、五大老 (豊臣政権下で合議制政務をした5人の有力大名) の筆頭である徳川家康が政治指導に頭角を現してきた。このままではヘタをすると徳川氏に天下を乗っ取られる。
 そこで豊臣政権を守ろうとした石田三成たちは家康と対峙した。そして慶長5年1600に起こったのが徳川家康方(東軍)と石田三成方ら豊臣政権存続派(西軍)に分かれての『関ヶ原合戦』である。陣形布陣では西軍の勝ちと見られていたが、西軍の小早川秀秋の寝返りで戦況は一転東軍の勝利となった。
 
◆何と云っても、織田信長・豊臣秀吉の両巨人の出現。
 
                                

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