2018年3月8日木曜日

日本の歴史第2巻


日本の歴史物語です  第2巻 [ 江戸時代から戊辰戦争終結まで ]

◆ 260余年の太平の世が始まるが、果たして 
応仁の乱より続いた戦国の世は終わり太平の世の江戸時代に入る。この時代は時代区分が分かり難いと云われる、と云うのは大きな戦いがないからである。変化の少ない太平の世、牙を抜かれた武士たちはサラリーマンの様になり、刀を抜かずに年貢の計算と事務処理に専念する。幕府はあの手この手で財政政策に頭を捻るが、財政は悪化するばかり。幕末にペリーが来航してからは、幕府・朝廷・有力諸藩は「これからの日本はどうする、攘夷する?、開国する?、」と意見は真っ向から対立。そこで幕末志士が大活躍、「日本の夜明けぜよ」と。 
 扨 関ヶ原合戦で一応戦国の世は終わり、徳川家康は後陽成天皇より征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いて家康はもう誰もが認める天下人。しかし、家康は僅か2年で息子の秀忠に将軍職を譲って、天下に将軍職の世襲制を示した。「もう豊臣氏には政権を渡さない」との意思表示でもあった。家康自身は駿府(静岡)で大御所(前将軍)として秀忠のサポートの回った (社長が息子を社長にして自分は会長となって権力の維持) 。家康はこのほか、大名の配置換えを実施した。親戚の「親藩(しんぱん)」は江戸近くや重要な場所に配置した。その周りに以前から家来や味方であった大名「譜代大名」を配置して、合戦後に味方になった「()(ざま)大名(だいみょう)(外様大名は政治についての発言権なし)」を江戸から遠くに配置した。その他、江戸・大坂・京都・奈良・金山(きんざん)のある佐渡・材木生産地の飛騨などは幕府直轄地の『天領地』とした。
 親藩のなかでも名古屋の尾張藩、紀州の紀州藩、茨木の水戸藩は重要で「御三家」と云い、将軍の跡取りがないときに、御三家から将軍を出すことができる。御三家はみな家康の子供が藩祖である。それから、1万石以上が大名、1万石以下は旗本で、各大名の領地を藩と呼んで幕府+藩=『幕藩体制』制度とした。
幕府の仕組みは将軍の補佐役に老中 (今で云えば内閣官房長官役) が数名いて、老中は大名から選ばれた。時によっては老中から「大老 (最高の老中で大老の決めた事は将軍でも覆せない) 」が任命されることもあった。老中の下には若年寄 (老中を補佐) や大目付 (大名の監視役) や寺社奉行 (全国の寺社の訴訟を担当) ・町奉行 (行政・警察・司法を担当) 、勘定奉行 (幕府の財政担当) が置かれた (要するに社長が居て重役が居る。大名管理部長、庶民管理部長、経理部長が居る様なもの)
 そして大坂には豊臣の残党を監視する為、大坂城に「大坂城代」を置き、各藩に対して一国一城令を命令し一つの国には居城は一つと、それ以外の領内にある城は破壊させた。また、『武家(ぶけ)諸法度(しょはっと)』なる制度を作り、大名としての心構えや城の新築や無断の修理の禁止、大名間の婚姻の許可制を制定した。さらに、天皇が居る朝廷を取り締まる法律を作り、天皇の譲位や即位にまで口を挟むことが出来るようにした『禁中(きんちゅう)(ならびに)公家(くげ)諸法度(しょはっと)』なる制度を作った。この結果、朝廷も勝手なことが出来なくなり、幕府には逆らえなくなった。
 家康は豊臣氏を滅ぼそうとしたが、それには口実が必要である。そこで豊臣氏が造った京都方広寺の鐘 (現在もこの鐘は有り) にあった1000字近くの文字の中に「国家に戦争や疫病がなく平和なときが続きます様に」「君主 (天皇など) も臣民 (民衆) も豊かに生活が出来る世の中が続きます様に」の意味の『国家安(こっかあん)(こう)』『君臣(くんしん)(ほう)(らく)』と刻んだ。ところがこの文字が「安の字で家康を引き裂いている」「豊臣氏を君として繁栄を楽しむ」と読める、と云う超こじつけの云いがかりをつけた。この云いがかりを発端に『大坂の冬の陣・夏の陣』が起こる。この2度の戦いで歴史に残る真田幸村の奮闘空しく、結局、大坂城は炎上、秀頼・淀君は自害して豊臣氏は滅びた。
 徳川幕府の基礎を築き、戦乱を生き抜いた家康も75歳で亡くなった。すでに2代目になっている秀忠は親父の影響で目立たない存在であったが、3代目家光は目立った。家光は父秀忠の長男であったが、父母は頭がよくて見た目の可愛い弟の国松を可愛がっていたので、家光は自分は将軍になれないかも知れないと悲感していた。ところが乳母のお福が直接駿河に隠居している家康に長男家光が跡を継ぐべきと訴え、それが実って家康が「世継ぎは長幼の秩序を守るべし」との宣言で、家光が将軍となる (因みにお福は後に朝廷から従二位の位をもらい [鎌倉時代の北条政子と同じ位]春日局(かすがのつぼめ)と呼ばれる。大河ドラマ「春日局」やドラマ「大奥」でお馴染み) 。
 将軍となった家光は先に作った武家諸法度に『参勤交代』の制度を付け加えて、大名の財政を削ぐようにした。「大名の奥さんは江戸に置け」いわゆる徳川への人質。「そして大名は1年ごとに江戸と領土を往復せよ」と、これが参勤交代制度。
 次に家光は農民にも厳しくした。『慶安(けいあん)御触書(おふれがき)』である。「農民は朝早く起きて草刈りをして、昼は田畑を耕し(じゃあ夜はゆっくりできるかと思いきゃ)、夜は家で縄をなったり俵を編んで、一日中仕事しろ(ひやぁ~無茶や)」とか、「麦や粟やヒエを食べて米は食うな」とか、「麻と木綿以外は着るな(高価な絹など着てはいけない) 」とか、「酒・煙草・茶は飲むな (煙草は止められても酒を止めるのは自分には耐えられない) 」とか、極めつけは「美人でも贅沢する嫁は追い出せ」とまで云っている  (何を楽しみにして生きて行けば良いのかぁ~、神様仏様)
 他にも士農工商なる身分制度。一番偉いのは「士」つまり武士である。苗字帯刀で苗字を許され刀を持つことが許され、偉そうに振舞って良いと云う事。次に偉いとされたのが食料を作る農民、その次に物を作る職人。最後はただそれらを右から左に流すだけの「商」こと商人であった (でも、実際はお金を溜め動かす商人の財力には敵わなかった)
 一番大変だったのは農民であった。「五公五民」とか「四公六民」と云って収獲の40%から50%を年貢 (税金) としてもっていかれ、米以外の作物を自由に作ることも禁じられた。この他、五人組と云って5家族ずつ1組にされ、どこかの家族が年貢を納められないとか、役人に逆らったりしたときには、他の関係のない家族にも処罰の対象とされた、要するに連帯責任をとらされた。百姓の中にも「本百姓」「水呑み百姓」と差別があり、その他「えた」とか「ひにん」の差別があった。「ひにん」とは「非人」で、犯罪者のことで、政治的犯罪者も、また犯罪者の家族も「ひにん」とされた。生活に苦しい百姓でも「わしら、えた、ひにんよりマシじゃ」と思いこませる環境にした。
 この様にひどい仕打ちにされ、あまり虐げられると爆発するときがある。実際、長﨑の島原でキリシタン信徒の農民を中心とした爆発 (一揆) があった、『島原の乱』である。キリシタンの益田四郎(ますだしろう)時貞(ときさだ) (天草四郎) なる少年をリーダーとした、重税や酷使に耐えかねた島原・天草地方の農民が耐えかねてブチ切れた。島原・天草の両藩が鎮圧に向うが、長らく戦いもなかったし、威張っているだけで根性のないナマクラ武士では歯が立たない。幕府は「何やってんだ」とカンカン。九州の他藩に応援を求めて、討伐軍は膨れ上がって120000人、対して一揆軍は37000人、もう武士のメンツ丸つぶれである。やっと兵糧攻めとオランダの軍艦から大砲を打ち込んでもらってようやく一揆を鎮圧した (威張っていたくせに情けない) 。
 この乱があった後はキリシタンに対する弾圧が厳しくなる (それに将軍より偉い神様がいても困るし) 。キリシタン信者を見つけては「キリスト教信仰を止めろ」と拷問か死刑にした。信者探索の為「踏み絵」もした。また、これを契機に幕府は人々を仏教の諸宗派にグループ分けして会員登録の様にした。「お前は日蓮宗。お前は浄土真宗、お前は真言宗…」と、宗門改帖(しゅうもんあらためちょう)に記録してキリシタン信者ではないとの確認をした。これを寺請(てらうけ)制度(せいど)と云って、これがキリシタンではないとの証明になった。この後、一部の信者は隠れキリシタンとして潜伏することなり、マリヤ観音を置いたり (パッと見は観音で、実はマリヤ様) 、仏壇の裏に十字架を張っておくなど、工夫をこらして幕末まで信仰を保った。
 ここで寺請制度について一言。この制度は全ての人にどこかの寺の檀家になることを強制した。寺では宗門改帖(宗門人別帖)なる戸籍簿をつくり、檀家がキリシタンでないことを幕府に対して証明した。このことは日本の仏教のあり方に大きな影響を与える。実は仏教には元来先祖の供養と云う考えはない。そもそも仏教を始めたお釈迦様自体が御先祖どころか、父母を捨て出家したわけだし (因みに出家をひっくり返せばそのまま家出、事実シャカは悟りを得る為の修業として家出した) 、シャカが得た悟りとは「形あるものはすべていつかは壊れ、生きとし生けるものはすべていつかは死ぬ。だから執着するのが一番いけない」との事。その様に先祖という、すでに亡くなった人に執着(供養のこと) するのは本来のシャカの悟りからかけ離れたものである。それまでにお経を読んで死者を弔うことはあっても、お寺がお墓を管理し、弔うことは実はこの時から本格的になったもの。幕府はキリスト教の広まりを防ぐために、外国との貿易その他の行き来を一切禁止した。これが『鎖国政策』である。
 幕府の権力をさらに強固にしたのが、3代目の家光。参勤交代・慶安の御触書(おふれがき)と、大名も農民にも厳しいものばかり、しかし、厳しい政策は島原の乱と云う反抗に会う。だから、厳しいだけでは駄目とこれまでの武断政治を止め、これより文治政治に転換していく。

◆幕府の権力をさらに強固にしたのが、3代目家光。
 ◆参勤交代・慶安の御触書と、大名にも農民にも厳しいものばか
り。
 ◆厳しい政策は、島原の乱なる農民の反抗にあう。
 ◆厳しいだけでは駄目と、武断政治から文治政治に転換する。

 強気の3代目家光の後を継いで4代目になったのが家光の長男・徳川家(とくがわいえ)(つな)、わずか11歳で将軍となる。まだ子供で政治のことは分からないので会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき) (家光の弟) が補佐役となる。しかしこの時代は家光が強気の政治をした為、大名がドンドン取り潰しとなり当然浪人が巷に増えた。無職者が増し失業率が高いと「政治が悪い」となる。徳川幕府に不満を持つ浪人がゴロゴロいた。この様な時、タイミング悪く兵学者由比(ゆい)正雪(しょうせつ)が失業浪人救済のため、幕府転覆を狙って謀反を計画した。正雪は軍学塾を開き塾生が3000人も居たと云う。しかし、計画を密告されて、逃げ出すが駿府で捕り方に囲まれ自刃した。
 この一件があり幕府の政治は大きな転換点を迎える。家康・秀忠・家光3代は力ずくで大名の取り潰しなどの強気の『武断政治』をやってきたが、家綱の時代からはその態度を改め、これからは儒学 (特に朱子学) で世の中を治める『文治政治』へと移行する契機となる。厳しい政治から優しい政治への大転換となる。家綱はその後40歳で亡くなる。
 次の5代目が徳川綱吉。4代目の家綱の弟で (家綱には子供がいなかった) 家光の4男である。綱吉は学問好きの将軍であった、前半は『天和(てんち)()』として称えられる政治をした程。然し後半は問題を生む。
 綱吉の母はお玉 (桂昌院) と云って八百屋の娘であった。と云っても「奥さん、今日、ダイコンが安いよ」と云っている様な八百屋ではない。庶民相手でなく格式?ある八百屋である。大名とか武家屋敷を相手にしている八百屋であった。その娘のお玉が大奥に奉公にあがり、家光の目に留り側室となり、綱吉を生んだ。家光はお玉の身分が低かったので、綱吉に学問を勧め儒学を叩き込んだ。結果、儒学大好きのお坊ちゃんとして成人し、聖堂学問所 (儒学を勉強する学校・湯島聖堂) を神田に建てたりしている。従って儒学者の新井白石や荻生徂徠などが台頭してくる。しかし、インテリ将軍すぎて政治の理想が高く、だんだんまわりがついてこなくなる、前半は良かったが後半の問題はここ。その上、綱吉は子供に恵まれなかったので、母の知り合いの坊さんの助言で将軍に子が生まれるための『生類憐れみの令』なる法令を出す。「将軍の前では、犬猫をつながなくてもよい」といきなり犬猫のフリー行動を許可し、ワンニャン騒動が始まった。「将軍様は戌年生まれですから、特に犬を大切にしなさい」のアドバイスもあり、犬に限らず小動物から虫まで殺生禁止 (これは仏教思想) 。魚・貝は食べられない、釣りも駄目、田畑を荒らす猪も大切に、野良犬が家に入りこんで噛みつこうが、メシを食っていこうが、殴ったりしてはいけない。犬を殴って島送りや処刑された人もいて……、もう世の中はパニック状態。あの、水戸黄門は、綱吉に犬の皮を送り「文句あるなら処罰してみろ、つまらん生類憐れみの令なんて止めなさいッ」と諫めている。この他、品質の悪い金銀貨を発行してインフレを起したりして庶民の物価が上がったり、犬に脅えたりして庶民は散々であった。結局、綱吉には子供が出来なくそのうちに亡くなった。遺した遺言は「この生類憐れみの令は、あと100年続けるように…」 (絶対ムリ) であった。
 この様な時、一大事件が起きる。毎年の慣例行事である天皇に将軍の新年挨拶の使者を送った後、朝廷から、そのお礼の使者が江戸城に挨拶に来るようになった。接待役の浅野内(あさのた)匠頭(くみのかみ)が、この時の礼儀作法を高家の吉良(きら)上野(こうずけの)(すけ)から教わろうとしたが意地悪され、とうとう喧嘩となり城内で斬りつけた。この時代は後腐れ無き様に喧嘩両成敗の暗黙があったが、でも、報告を聞いた将軍綱吉はカッとなり「浅野は切腹」と命じてしまった。この時の浅野の恨みが残ったのである。この1年半後に浅野の家臣が吉良家に押し入って上野介の首を跳ねた、これが『忠臣蔵』である。 (この時の吉良・赤穂両軍の戦力は、赤穂浪士軍46人、吉良軍51人、戦力的にはやや互角。結果は赤穂軍の圧勝、吉良軍は死者16人、逃げ出した者11人、重軽傷24人)
 綱吉亡きあと綱吉の兄の子 (即ち家光の孫) ・徳川家宣(いえのぶ)48歳で6代目将軍となり、儒学者の新井白石も政治に登用して『正徳(しょうとく)()』と云われる善政を布いたが、3年で亡くなり短命であった。
 後を継いだ7代目は家宣の息子の家継で、4歳で将軍職を引き継ぎ新井白石が面倒みていたが、わずか8歳で亡くなる。そうなると、次の将軍に誰がなるかの問題が起きる。7代の家継は8歳で亡くなったので、当然息子はいない。そこで御三家がクローズアップしてきた。将軍の後継無き場合は御三家より選ぶことができるシステムは既報の通り。この時は尾張藩と紀州藩で将軍の座を争ったが、相当激しい選挙運動となり、家康の血が一番濃いと云う事で紀州藩の吉宗が8代将軍となる(テレビでお馴染み暴れん坊将軍)。

◆武断政治が続き浪人が増えてきた。由比正雪の件もあり、幕府は方針を転換する。
◆そんな中、儒学好きの将軍・綱吉が生類憐みの令なる悪法を出したが、綱吉の死にて解放される。
◆その頃、幕府財政は大赤字、それを改革したのが吉宗である。

 新しく将軍となった吉宗は政治の実権を握っていた新井白石を罷免(ひめん)(クビ)にし、自らが政治をする将軍親政とした。当時の幕府財政は大赤字 (要するに贅沢のしすぎでお金がなかった) だったので、財政再建や人材登用が行われた。特に財政再建は何とかして、幕府の通帳残高を増やそうとする政策であった「入るを計りて出ずるを制す」。先ず新田開発、次に各大名から1万石に対して100石の割りで米の徴収「上米(あげまい)の制」の実施、当然、増税反対ってことになるが、そこは、「その代り参勤交代の江戸滞在期間を1年から半年に短くする」で納得させる。他にも「足高の制」即ち有能な人材確保の制度を定めた。あの有名な大岡越前守もこの制度で、吉宗に採用された人物である。また、庶民の声を聞く為に「目安箱」を設置した将軍への直通メールである。これにより庶民の為の「町火消し (消防団) 」や「小石川養生所 (公立総合病院) 」が出来た。この他にも将軍自ら木綿の着物を着て、質素倹約に努め家来にも倹約を命じ、食事は一日二食、献立は一汁三菜、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させ、リストラを断行した。これらの30年にわたって行われた改革は『享保の改革』とされ、江戸時代の3大改革の一つに数えられる。その他にも洋書の一部解禁、医学の進歩にも貢献した。然し一方、年貢を五公五民にした為、百姓一揆が頻発し庶民にまで倹約を強いた為、経済や文化は停滞した。この当時、近松門左衛門の人形浄瑠璃の影響で流行した心中を抑制する為に、心中未遂で生き残った男女を人通りの多い場所に晒し者にさせる事も行った。
 やがて将軍職を長男・家重に譲る事になるが、家重は言語不明瞭で言葉がハッキリしないし、それにオモラシ (失禁) もあり「小便(しょうべん)公方(くぼう)」と揶揄(やゆ)され、政務がとれる状態ではなかった。吉宗は自分が死去するまで大御所として実権を握り政治をサポートした。
 家重の後、息子の(いえ)(はる)10代将軍となる。この家治は全く政治に関心がなく好きな将棋や趣味に没頭して、政治のことは老中の松平(まつだいら)武元(たけもと)と側用人の田沼(たぬま)(おき)(つぐ)に任せきり。武元が亡くなると意次を老中にした。そして老中意次は従来の重農主義から重商主義に政策を変えた。株仲間を奨励し、この仲間から幕府は冥加金をとる (今で云えば政治献金の様なものだが、はっきり云えば賄賂) 。また、重商主義で町人や商人の文化は発展したが、農民の対策はなく悲惨な状態だった。その上、天明の大飢饉、疫病の流行、浅間山の大噴火ありで農民は散々であった。そうなると、当然米の値段は上がる、財政難だった各藩の年貢の取り立てが一層きびしくなる。こうなってくると「こんなのやっておれるか」と各地で一揆の勃発 (貧すりゃドンする) 。「おらが村では生きていけねぇべ、江戸さ行くべえ」と多くの農民が、都市部に流れるし農地は荒れる。じゃあ~と江戸に行ってもこれらが原因で治安が悪くなり、打ちこわしが頻繁におきる。当然こんなことが続くと「田沼の政治が悪い!」となり、田沼意次は失脚した。
 10代将軍家治の時は意次のお蔭でトンダリケッタリの時代であったが、家治は息子が亡くなっていたので、11代将軍は一橋家の徳川家(とくがわいえ)(なり) (15歳) が引き継いだ。将軍補佐の為に老中は白河藩主の松平定信 (吉宗の孫) がなった。定信は天明の大飢饉で東北の諸藩は数万人の餓死者を出すが、定信が藩主だった白河藩では一人の餓死者も出さなかったとか。そのノウハウが幕府の目にとまり、今度は幕府改革での成果を期待され抜擢されたわけ。
 定信は吉宗の享保の改革を手本にして緊縮財政を取ることにした、これが『寛政の改革』。先ず、飢饉を教訓に「囲い米」なる穀物の備蓄を命令した。都市に居た農民には「帰農令」を出し農村に帰るように指示、「資金を与えるから村に帰り (帰るとチョツトお金が貰えるサービス付き) 、米作りをしなさい」とか、農村の少子化対策に生まれた子供の間引きをやめなさいとか。他にも「(にん)足寄場(そくよせば)」を作り、無宿人らを石川島の寄場に集め職業訓練を始める、これには江戸の治安対策もあり、浮浪人を収容してみんな菜種油を絞る仕事をやらせた。これがきっかけで今でも「厳しく叱ってとっちめる」の意味の「油をしぼる」の言葉の語源になっている。
 この他、学問にも制限をつけ、幕府にとって都合のよい朱子学 (儒学の一つ、目上の者や身分の高い者への絶対服従を唱える学問で、幕府には都合が良かった) だけを公認の学問としてそれ以外の学問は禁止した。株仲間も廃止したので、そりゃ~もう、堅苦しい厳しいものだった。あまりの厳しさの為「白河の清きに(さかな)も住みかねて元の濁りの田沼恋しき」の狂歌が詠まれたりした。こんなことで完璧主義の松平定信の老中の地位は6年で終わる (あまり堅いのもどうかと思うよ「堅くもよし柔らかくもよし人生は中道ゆこう彼岸の中日」)
 あっ、そうだ、この徳川家斉なんと、40人以上の奥さん持ちで (もちろん正妻は一人) 50人以上のお子さんがいたとか (家斉さんのお盛んなこと) 。おかげで幕府の財政はますます厳しくなった。家斉は、どんどんこの子達を大名の養子や妻に送り込んだ。妻の方はまだしも養子を送りこまれたら、家を乗っ取られてしまう。そんなこんなで家斉の頃の大名たちは冷や冷やしていた。
 話は前後するが前記の寛政の改革の頃よりは外国船が通商を求めて来航するようになっていた。先ずロシヤ船がロシヤに漂着した船乗り大国屋光(だいこくやこう)太夫(だいふ)を根室に送り届けてきて通商を求める (これはかって緒方拳主演で平成2年に映画化 ) 。これ以降、幕府は近辺の大名に警備を厳重にと命ずる。なお、幕府は伊能(いのう)(ただ)(たか)に蝦夷地の測量を命じ、近藤重蔵に千島を探検させた。続いて間宮林蔵に樺太を探検させて、ロシヤに先立ち樺太が島である事を発見 (間宮海峡) 。その後、アメリカやイギリスの船までやってくるようになった為、幕府は「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」を出し鎖国を守ろうとした。これを批判した蘭学者の高橋朝英や渡辺崋山は厳しい処罰を受けた。
 また家斉の頃は文化・文政の年号に因んで化政文化と、多くの文化の花が咲いた。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道膝栗毛」・滝沢(たきざわ)()(きん)の「南総里見八犬伝」・俳句の小林一茶や与謝(よさ)蕪村(ぶそん)・歌麿の美人画・写楽の役者絵・広重の風景画の「東海道五十三次」・北斎の画集「冨嶽三十六景」などである。そしてこの頃迄に民衆も教育が受けられる様になり、寺子屋では「読み・書き・算盤(そろばん)」などの実用的な教育が施された。
 やがて12代目は徳川家慶(とくがわいえよし)が将軍となる。しかし11代の家斉が大御所として政治を牛耳っていたので、家慶の思い通りにはならなかった。そんな時に「天保の大飢饉」が起こる。極端な米不足になり、米の値段が高騰して、当然の様に一揆や打ちこわしが起きる。各地で餓死者や疫病で亡くなる人が続出。東北では「人肉を食った」の話もでる。こんな中、商人は「これはチャンス」とばかり米を買い占めていった。そんな時、大坂町奉行の跡部(あとべ)(よし)(すけ)が家慶の将軍就任の儀式用に米を江戸に送ろうとしていた。これに、大坂町奉行の筆頭与力の大塩平八郎が噛みついた。「餓死者まで出ているのに貴様ら何てぇことをするんだ~、我慢ならねぇ~」と決起した、これが『大塩平八郎の乱』である。300人ほどで豪商など襲うが、事前に計画が洩れ失敗し半日ほどで鎮圧された。しかし、現役役人の反乱は幕府に大きな衝撃を与えた。
 そんな中、12代目の家慶は親父の家斉 (大御所) が力を揮っていたので始めはおとなしくしていたが、その家斉が亡くなると思い通りの政治を行える様になり水野忠邦を老中にした。その忠邦が早速始めたのが『天保の改革 (江戸時代3大改革の一つ) 』で、江戸に集まった農民を農村に帰す「人返し令」とか、株仲間の解散とか、以前行っていた事と変わりなく新鮮味はなかった。また、江戸や大坂の大名の領地を巻き上げる「上知令(あげちれい)」を執行しようとして猛反対にあい、とうとう老中を失脚した。いよいよ幕府も末期症状が見えてきた。そこへペリーが黒船を率いてやってきた。
 「天保の改革」が進まない中、アメリカのペリー来航は日本がひっくり返る様な大事件であった。しかし、これが日本の夜明けとなっていく。

◆意次の重農主義は、農村の発展に何ら寄与しなかった。
◆それに、米の不作が続き、飢饉をもたらすし、人々は都会に集まり農村は荒廃する。
◆そこへペリーが黒船を率いてやって来る。
  
 話はそれるがイギリスやフランスが(しん)を植民地化していく中で、アメリカは捕鯨にための燃料・食料の補給地を確保しておきたかったので日本をターゲットにした。アメリカは、1776(安永5年・田沼時代)に独立宣言して、その後、メキシコからカルフォニアを奪って、領土が太平洋岸に達し、アメリカと清との貿易は盛んになっていた。それで日本と云う中継地がほしかった背景がある。捕鯨のため (今は鯨は頭が良いから捕まえたら可哀そうだと大騒ぎしているのに) の中継地がほしかったこともある。ペリーは、4隻の黒船を伴って手続きも何も無く、いきなり浦賀に乗り込み「大統領の手紙を持って来た。早く将軍に取り次げ!」と強気。当時の幕府幕閣はうろたえるばかりで、その時を歌った狂歌がある、「太平の眠り覚ます上喜撰(じょうきせん)(蒸気船)たったしはい(四隻)で夜も眠れず」と、宇治茶のブランド上喜撰を4杯も飲むとカフェイン効果で夜も眠れないって事を掛けて歌われた狂歌。日本の慌てぶりを表した歌である。
 ペリーは大統領の書簡をもって開国を迫った。 (これよりチョツト文章がややこしくなるョ、ゆっくり読まれる事を願う) 当時の老中は阿部正弘であった。こういうときの日本の特技として、「ぶらかし」がある。何かを問われると、YESともNOとも云わないで引き延ばす態度。西洋人には到底考えられない独特の外交で、かつ文化的風習でもあった (今もそうかも) 。ペリーも結構、日本研究をしており、「キマシタネェ~、BURAKASHIネ、動じましぇん~」と1年後の再来を約束して帰る。すると同年7月に出遅れてはいけないとロシヤ使節プチャーチンも長﨑に来航した。老中・阿部正弘はこれを朝廷に伝え、諸大名や幕臣にも相談を求めた。今迄の幕府であればマイペースなのでいちいち朝廷に報告したり、大名に意見を求めたりはしなかった。だから誰もが心中には批判や反対があっても、従うしかなかった。ところが今回この様な形で相談を求めてきた、相談となると自分の意見が云える。幕府は自分達より上 (それも絶対的な) から命令するだけの存在でなく、話し合いの相手になってしまう。つまり対等の関係になったと云う事。「なあんだ、俺達の意見を聞くなんて幕府もたいしたことないじゃん」となる、実際にこれより十数年後にそうなる。
 ところで話し合いだが、当然まとまらない、と云うか、まとまるわけがない。朝廷や諸大名は黒船を見てない。鎖国だから海外の事情も知らない。朝廷や大名は強気だった、「この国に汚らわしい異人は入れるな」と主張。特に当時の天皇であった孝明天皇は極端な異人嫌いであった。幕府は亡くなった家慶のあとは四男の家定が継いでいたが、病弱で将軍としての指揮はしていない。
 そんな時ペリーは7隻の軍艦を率いて横浜沖にやってきた。前回よりも3隻も多い、「開国しないと容赦しないぞ、大砲をブチコムゾ」の意気込みに幕府は、「こりゃ~、まずい天皇や大名は反対するが開国せんとマズイ」と、止むを得ず幕府は『日米和親条約』を締結した。「下田と函館に限り使ってよい。休憩も補給も認める」となった。これで215年続いた鎖国政策はザ、エンド。しかし、こうなると他の国も「俺らにも認めよ」と云ってくる、「え~い、こうなりゃ同じ事」とイギリス・ロシヤ・オランダとも条約を結んだ。
 これで調子づいたアメリカはハリスを日本に送り総領事とする。ハリスは「ようやく開国したので、今度は貿易をしょうョ!」と迫る。朝廷や大名は反対、しかしこの時、英仏の大艦隊が襲来するらしいの情報もあり、もはや一刻も猶予もならないとの苦渋の決断で、大老・井伊(いい)(なお)(すけ)が天皇の勅許(ちょっきょ) (許可) も得ないで「よし、やろう」と『日米修好通商条約』を結ぶ。これで、函館・新潟・神奈川・兵庫・長﨑は開港した(下田は閉鎖)。でも、この条約は拙かった、開港以外に『治外法権・領事裁判権』 (外国人が日本で悪いことをしても、外国人が外国人をお互い裁くので、日本人はノータッチ。たいがい無罪となる) と『関税自主権を持たない』 (外国の激安製品が日本に売り込まれても関税でガードできないので、日本の産業が打撃を受ける。最近のTPP問題と一緒) と日本に不利なことばかり。それにアメリカだけと云う訳にはいかない、「アメリカだけではズルイ、我等とも条約を結ぼうぜ」と各国の要求、幕府はもうヤ・ケ・ク・ソ。イギリス・ロシヤ・オランダ・フランスとも条約を結んでしまった。
 

 ◆ペリー来航は、権力を欲しいまましてきた幕府の根元を揺るがすことになる。
◆強引な開国要求に、ついに幕府は鎖国を解く。さらに、不平等な条約も結び、幕府の権威は急激に下がってしまう。
◆尊王・攘夷・倒幕と徳川幕府の存続も時間の問題となってきた。
 (ペリー来航以来文章判って下さいましたか、判って下さればシヤワセ)
 

井伊(いい)(なお)(すけ)は天皇の許可も得ないで通商条約に調印したので、反感の目は当然そちらに向く。「(えい)国人(りあん)と貿易なんて、とんでもない」と、すでに幕政に参加していた水戸の徳川斉昭などは攘夷派 (外国人は追い出せの派) の立場であったので対立する。さらに13代将軍・家定が病弱だったので後継ぎがなく、将軍の後継ぎ問題が絡んでくる。御三家からか御三卿 (徳川ゆかりの) からか候補に挙がったのは紀州の徳川慶福(よしとみ) (のちの(いえ)(もち) と水戸藩出身で一橋家を継いだ一橋慶喜(よしのぶ)。仕事が出来る有能な慶喜か、サラブベットの慶福か。これに「攘夷か、開国か」の思想の対立が合体。この時に、井伊直弼は「幕府ってぇ~のは独裁である、大名は口出しするな!。俺がっ慶福がよいと云ったんだ、反対なんかするな」と強気。ついには慶喜を推薦した老中は懲戒免職、官僚らは左遷、慶喜は謹慎させて政敵を抑え込む。さらに攘夷派の一掃をめざし、吉田松陰、橋本佐内ら多くの志士を処刑した、これが『安政の大獄』である。
 この安政の大獄のやり方に不満を持つ者は多くいた。慶喜は水戸藩出身であるので、水戸藩は大激怒であった「慶喜様を謹慎させるとは何事だ、直弼のヤロウたたっ斬ったる」。と満延元年(1860)に桜田門外で元水戸藩士ら (この様な時、出身の藩に迷惑がかからない様に脱藩して行動に出るのが当時のやり方) に暗殺された、これが『桜田門外の変』である。因みに井伊直弼は歴史上悪役で人気はいま一つだが、出身の彦根藩(滋賀県)では名君として知られる。藩主時代は素晴らしい政治をした。本当は藩主になれる筈のない四男坊で30過ぎまでは部屋住み居候の身分であったが、それがひょんなことから藩主となり、そして幕府の大老となり歴史の教科書に名前が残る、人生はわからないもの。人気が今一つない人であるが、彼の残した言葉に人気のある言葉がある、「一期一会」である。この言葉の意味は「出会いは一生にただ一度の出会いになるかも知れない、そういう思いでいつも人を大切に接する」それが一期一会の精神。千利休の弟子山上宗二が残した「一期に一度の会」と云う言葉をわかりやすく広めた。
 話を元に戻して (話はだんだん難しくなる、申し訳ない) 、日本は開国して井伊直弼の日米通商条約で始まった貿易のおかげで、外国人の生糸(シルク)やお茶の買い付けが多く (日本製品は優秀な為) 国内で不足してくる。京都西陣では職人らが糸不足にキレまくって大暴れ。さらに安政の大地震は起こるは、コレラが流行で広がるわ (外国人が菌を持ちこんだと、日本人は考えた) で大騒ぎ。「幕府が開国して貿易なんかするからだ」と徳川幕府に不満がつのる。「そもそも外国人が貿易するから悪い!、追い出してやる」と開国に反対する人々の間では『攘夷論』が多くなる。それに、「頼りない幕府を倒して、天皇の世の中にしょうぜ」と『尊王論』の考えも出てきた。この二つを合わせて『尊王(そんのう)攘夷論(じょういろん)』である。
 そんな風潮の中、幕府としても何とかしなければと考えたのが『公武合体論』。これは「公」即ち天皇・朝廷を中心にした公家勢力と「武」即ち幕府の武家勢力を一つにしょうとするもの。天皇の親族女性を14代目の家茂の奥さんにして「朝廷と幕府は一諸になろう」なる考えである。朝廷の権威を借りて幕府の発言力を強めようの考えである。「おっ、ちよっと待て、おかしいぞ幕府と朝廷は仲が悪いではないか」と思うが左程でもなし。実は孝明天皇は外国人が嫌いなだけで「やっぱり頼れるのは幕府だ」の佐幕派 (幕府を頼りにしている派・佐幕派とは倒幕派と区別する為に言われた言葉。幕府を補佐する意味) だった。だから、「おぉ~、良いアイデァーでごじゃる。それでは、妹の和宮を嫁がせるでごじゃる」と和宮を家茂の奥さんにしたわけ (共に17歳・政略結婚)
いよいよ幕末の動きも激しくなるし、寺田屋事件が起きる。この様なとき尊王攘夷派で大藩の薩摩藩が横浜の生麦村でイギリス人を切り殺す事件が起きる。乗馬した4人のイギリス人が薩摩藩主の行列の前を横切り、怒った薩摩藩士に「この無礼者」と殺傷された、これが『生麦事件』。殺されたイギリス側はカンカン、鹿児島まで軍艦を派遣して『薩英戦争』となる。これはプロ野球選手と中学野球選手が試合する様なもの、中学野球選手なる鹿児島藩は頑張るが、城の櫓、民家、藩士の屋敷など壊しまくられ、もうボロボロ。結局、イギリスに謝り幕府から借金して賠償金を払った。
この薩英戦争で薩摩は「外国は強かでごわす。これじゃ攘夷は無理かでごわす」と、それからは攘夷を諦めて倒幕に力を入れる様になる。イギリスも「薩摩は根性がある」と、幕府より薩摩と仲良くした方が良いと感じ、薩摩とイギリスは仲良くなり、そして藩内では西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握るようになる。
 次の問題は長州藩 (山口県) の『下関事件』。長州藩単独で攘夷を実行した。なんと、下関に砲台を設置して、海峡を通過する外国船を単独で大砲を撃ちまくった。当然、外国側は頭にきてイギリスがアメリカ・オランダ・フランスに呼びかけ4ヶ国連合で長州藩に攻撃した (何と山口県代表でヨーロッパ・アメリカ連合を相手にしてしまった) 。勿論コテンパン、下関砲台も徹底的に攻撃して占領された。これで長州藩も「外国は強いけぇ!、じゃけぇん攘夷はでけん」となる。これで長州藩も攘夷は諦めて、倒幕に力を入れる様になる (流れは薩摩藩と一諸)

◆大老の井伊直弼が桜田門外で暗殺されて、幕府の権威も地に落ち
てしまう。
◆薩摩や長州は攘夷論のもと勝手に外国と戦争を始め、徳川の統率
力もなくなる。
◆もう、舞台は江戸ではない、天皇のいる京都に移る。
 
 いよいよ歴史の舞台は京都に移る。外国との戦争に敗れた薩摩と長州も攘夷を止め、天皇に顔が利く公家の取り込みに忙しい。京都には脱藩した倒幕派の浪人がウヨウヨして治安が悪い。そこで幕府は、会津藩主の松平(まつだいら)(かた)(もり)を京都守護職にして、京都治安維持の為に新撰組を置いた。新撰組は京都にいる過激的な尊王攘夷論者や不逞(ふてい)浪士(ろうし)を容赦無く殺害し、その取り締まりは相当厳しかった。
 一方、攘夷と云う邪魔になった思想を取り除きたい薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と手を結んで、折から御所警備をしていた長州藩士をクビにして7人の尊攘派の公家 (この辺りちょとヤヤコシイヨ) を一掃してしまう (これを八月十八日の政変と云う。七卿落ち・石橋のいわれ石の話はこの頃の話) 。ところが、失地回復をはかる長州藩は翌年にこれを逆襲し、御所を守る薩摩・会津に即ち御所に大砲を撃ちこむが敗走した(蛤御門の変・現在もこの時の戦いの疵が御門の柱に残る) 。御所に大砲を撃ちこんだことに、天皇は大変なお怒り「朕に向って発砲するとは、長州藩は許せないでごじゃる」と、天皇の命により幕府は15万人軍隊で第一次長州征伐した。この時の参謀は薩摩藩士の西郷隆盛で、攻められた長州藩は家老は切腹し、山口城は破却と認めさせ一件落着。この様に薩摩と長州は常に喧嘩、そんな中、「同じ倒幕派の薩摩と長州が喧嘩していてはイカンぜよ」と考えていたのが坂本龍馬。
 龍馬は薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎を京都で会合させ、『薩長同盟』を結ばせた。但し、幕府にはナイショ。これを知らない幕府は依然不穏な動きをする長州に第二次長州征伐を決め、薩摩にも出兵の指示をだすが同盟を結んでいる薩摩は拒否。第二次征伐は幕府軍は苦戦の連続でもう一歩で敗北の(さま)であった。そんな中、14代将軍家茂が亡くなった。幕府軍は朝廷に願って休戦の御沙汰書を頂き退却した (イヨイヨ幕府もダメか) 。
 徳川家茂の死後、徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)が15代将軍になるが、なんとこのタイミングで孝明天皇が亡くなられた。天皇親政の考えを持ちながら幕府の後ろ盾であっ佐幕派の天皇が亡くなり、幕府は命綱が切られたも同然。新たに明治天皇が即位すると、朝廷内は反幕府の勢力が目立ち幕府は大ピンチ。慶喜は将軍になったが、そんなこと関係なく薩摩も長州も武力で倒幕の準備を進める。そんな時、坂本龍馬が「内戦を避ける為に平和裏に大政奉還で幕府をなくし、将軍慶喜を助けつつ、雄藩の藩主と共に新しい政府をつくる」と云うアイデアを、土佐の前藩主・山内(やまのうち)(とよ)(しげ) (容堂) も同意して、将軍慶喜に伝えた。簡単に云えば、山内容堂が「もう、幕府を閉じても良いんじゃない?」、「もう、こりやぁ無理だな。天皇様に政権を返すか」ってことで、慶喜は二条城で『大政奉還』を行った。これで、264年続いた江戸幕府は幕を閉じた。
 なお、この大政奉還に当って慶喜は進んで政権を返上することで内戦状態を避け、外国の介入を防ごうとの考えもあった (当時薩長はイギリスの、幕府はフランスの協力があった。幕府と薩長が戦争したら、そこにこの2国が割り入るなどして、日本が他国の植民地になっていた可能性は多分にある。実際そういう状況で欧米列強の植民地になった国は多くある) 。 この大政奉還の話を聞き、坂本龍馬は「慶喜を見直した、よくぞ日本のために決心してくれた。俺は慶喜のために死んでもよい」云ったとか。

◆京都の町は、倒幕派の浪人とそれを取り締まる京都見廻り役や新
撰組との戦い。
◆長州は長州で画策するが失敗。幕府より長州征伐まで受ける。
◆そんな中、薩長同盟を結んだ薩摩・長州は力をつけ、政権を天皇
に返す大政奉還にまでこぎつける。 これで264年続いた徳川幕
府は終焉を迎えた。
◆新しい明治政府は、徳川の勢力を叩き潰すことから始める、もめ
はまだ終わらない。 

幕末を舞台にした時代劇映画の主役に鞍馬天狗がよく登場した。嵐寛寿郎が大友柳太朗が高橋英樹が云った有名なセリフ「杉作ッ! 日本の夜明けは近いぞ…」。そう、武士が偉そうに闊歩(かっぽ)(威張って歩く(さま)していた鎖国の時代は終わった。今からは天皇を中心にした、新しい時代の始まりである。と、云っても即位した明治天皇はまだ中学生ぐらい。実際は周りの大人が政治を行うが、全て天皇の命令として発表される。周りの大人達は倒幕の活躍した薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥後藩で占められていた (何て事ない藤原氏の摂関政治や白河上皇の院政、そして北条氏の執権政治と同じではないか) 。
新政府は明治天皇を筆頭に薩摩と仲の良かった公家の岩倉(いわくら)(とも)()三条(さんじょう)(さね)(とみ) (七卿落ちで池田石橋のいわれ石の上で嘆いた公家)
薩摩藩だった西郷隆盛や大久保利通。
長州藩出身の木戸(きど)(こう)(いん) (桂小五郎) や伊藤博文。
土佐藩からは板垣退助や後藤象二郎。
肥前藩では大隈重信。 などのメンバーが居た。
さて、この明治政府が真っ先に取りかかったのは、武士の政治は終わって、「再び天皇が政治を行う時代がきたぞぅ~」、と云う宣言である。これが『王政復古の大号令』だ。『王』つまり天皇による『政』つまり政治が、『復古』つまり昔の様に復活したことを高らかに宣言した。
ところで新しい政府をつくるのに、邪魔なものは古い体制である。徳川は政権だけは返したが相変わらず日本一の大地主、戦って負けたわけでなし財産などはそのまま残る。納得できない旗本達も沢山いた。「この前までは慶喜様にペコペコしていたくせに、なに威張ってんだ」「薩摩藩が諸悪の根源だ」と。いつの時代にも反対する人はいるもの。
新政府としては「徳川は目障りだ、叩き潰さなければ」と思っていた。特に西郷隆盛は「徳川は叩かんといかんでごわす」の思いであった。この為、薩摩藩は江戸の町を破壊したりして旧幕府の人達を挑発していた。これに徳川の旗本や大名達が怒り出し「倒薩だぁ」となる。そうなると、もう、慶喜も抑えきれず「倒薩」の命令を出した。西郷隆盛には思い通りの展開であった。
会津藩・桑名藩・新撰組などは京都を封鎖する目的で京都に向うが、途中の鳥羽街道はすでに薩摩藩が封鎖していた。
京都封鎖が目的の慶喜軍、徹底的に徳川を叩きたい薩摩藩、当然激突する。これが『戊辰戦争』の始まりの『鳥羽・伏見の戦い』。
明治政府は「待ってました」とばかりにこれに応戦し、明治天皇から「慶喜追討令」まで受け取り、「天皇の軍隊であるぞ」と慶喜 (幕府) 軍と交戦した。こうなると単に慶喜軍と新政府軍との喧嘩でなくなるわけ、慶喜軍は完全に朝敵となった。ところで、この戦いで政府軍にはすごい武器があった。さてどんな武器か、戦車?、飛行機?、そんなものはまだない。それは、すごい武器と云うのは旗だった。その名も「錦の御旗」と云う天皇の命令で動くと云う目印の旗であった。
錦の御旗を見た慶喜軍の武士の多くは「天皇には刄向えない」と戦意喪失した。当然、慶喜軍はボロ負けをする。慶喜は天保山沖の米艦に逃げ込み江戸に逃げ帰った、幕府軍も東へ逃げて云った。一方、新政府軍は錦の御旗を先頭に天皇の軍隊 (官軍とも云う・結構よく使う言葉) となったこともあり、勢いつけて江戸に迫る (時は慶応4年1月寒い時、当時は旅客機も新幹線もないよ。幕府軍も官軍も歩いて、和洋折衷の軍服来て、鉄砲担いで、大砲を引っ張って江戸に向った。現代人にはとてもできない) 。もう、江戸での激突は避けられない一触即発の状態であった。ところが二人の英雄によりその最悪の事態は回避される。一人は官軍参謀の西郷隆盛、一人は旧幕府軍艦奉行 (今で云えば海上自衛隊のトップ) の勝海舟である。「西郷さん、江戸で庶民を戦いに巻き込んじゃいけねぇ~よ」「ヘタすりゃあ外国の植民地になっちまうぜ」と。
(ここで少し文章は長くなるが、勝海舟のことを)  勝なる人物は稀に見る人柄で、あの坂本龍馬が勝を暗殺しょうとしたが、勝の素晴らしさに暗殺を取りやめ、それどころか弟子になってしまうと云う、そのくらい魅力もあって頭も良い人物であった。因みに彼は幕府がどうの、天皇がどうの、と云う事よりも、日本が二つに分かれて戦争することで、日本の力が弱まり、その際に外国の植民地にされる事を心配していたと云う。この時代にはそう云った考え方が出来る人は殆んどいなかったので、実に素晴らしい人物であった。その勝としてはどうしても江戸 (日本どころか当時の世界で一~二を争う大都会だった) を戦場にすることは避けたかった。多くの戦士達が傷つけ合うのも勿論だが、それ以上に江戸が戦争のせいで焼け野原になり、江戸に住んでいた百万人を超える人達が家を失くし、路頭に迷うのを避けたかった。
ところが西郷は強硬派であった。西郷は今後の新政府の為にはこれまでの幕府軍の生き残りを一度コテンパンにしないといけない、の信念をもっていた。革命には血がつきものの考えの持ち主だった。そんな西郷だったから一筋縄にはいかなかった。勝は必死で西郷を説得したことは想像にかたくないが、結果として西郷は説得に応じた。これは日本は勿論世界の歴史においても特筆すべきことで、ここに『江戸城の無血開城』がなされ、江戸城は新政府の管理下に置かれることになる。
しかし、旧幕府軍の中には、まだ、納得出来ない人が大勢いた。彼らは江戸を後にして東北に向う、そこには会津藩があった。この藩は最後まで幕府側として薩長と戦った藩である。ここの藩主であった松平容保は京都守護職として新撰組などに命じて多くの倒幕派志士達を殺して (池田屋事件などドラマでもお馴染み) 、政府側からは恨みを買っていた。その会津藩と新政府軍の会津若松の戦いでは、悲劇だったのは15歳から17歳位の会津藩少年藩士の白虎隊。彼らは前戦で必死に戦うが、落ち延びた飯盛山で見下ろすと町が燃えている。この時、鶴ヶ城は焼けていなかったが、彼らは「あぁ~、城が落ちた」と勘違いして、お互いを刺して自害した。
会津で敗れた旧幕府軍は、当時、蝦夷地と呼ばれた北海道までもつれ込み、舞台は箱館 (今の函館) で最後の決戦。ここの五稜郭で新撰組の副長だった土方歳三や幕府の旧海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)らと共に立て籠もり官軍を迎え撃つが、負け戦となり戊辰戦争は終結した。
(戊辰戦争の名の起こりは戦争の起こった慶応4年、即ち明治元年の干支(えと)が戊辰の年だったので、そう名付けられた。なお、陸奥・出羽・越後など諸藩が同盟し、蝦夷に五稜郭を中心に榎本武揚が総栽となり蝦夷共和国と云う独立国を造り政権を樹立していた。約4ヶ月間一つの国として世界地図にも載った。)

◆新政府が出来、まず行ったのが、古い体制の消滅だった。
◆鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、徳川を叩き潰すための戦
であった。
◆鳥羽・伏見・江戸・長岡・会津・北海道と転戦し、徳川の勢力は
消滅した。
◆次に障害になるのは各地の大名である。明治政府は排除する政策
をとる。
 

第3巻に続く


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